直接金融に対するケインズの批判

 

 間接金融の信用創造によって(金融機関から借り来て)新規投資(生産設備・雇用・中間財の購入等)をするという、信用創造による新規投資は誰でも出来ることであり、つまり、大勢の者が投資に参加出来るので、資本主義の世の中では最も望ましいことでありしたがって、最も望ましい資本主義社会を作り上げることが出来るようになるのですが、しかし、大勢の者が簡単に新規投資に参加することを快く思わない勢力が存在します。

 それは資金を潤沢に持ち、投資を独占したいと思っている国際投資家と呼ばれる富裕層たちです。国際投資家たちは、投資家と債権者から成ります。

 新規投資の競争相手が少なくなれば、富裕層の持っている資金の価値が高まり(資本の希少性)、それによって、富裕層は飛躍的に利益率を高めることが出来ます。

 実際、日本は、作物の品種改良や栽培方法を何十年かけて開発しても、農協も金融機関もお金を貸さなくなっていますから、投資ギャンブルしかやっていない投資家の資金を借りなければ品種改良した種苗をもって新しい農業を始めることが出来なくっています。

 農協も金融機関もお金を貸さないのは、国際金融資本の取り決めたBIS規制によって、潤沢な担保を持っている者にしかお金を貸し手はいけないというルールが作られたからです。このルールは、危険資産管理基準と呼ばれています。

 金融機関は国際的な協定でその手足を縛られていますから、どうしても事業資金を、投資ギャンブルしかやっていない無国籍の国際投資家から資金提供を受けなければ成りません。

 テレビはあたかもそれが美談のように紹介していますから、マスコミもどうかしているというしかありません。

 投資家から資金を受ければ、投資家はお金を貸すだけでは満足しませんから、共同経営者としてその所有権の半分を取られてしまうという話が日常化しています。

 技術や経験を持っているのに間接金融(金融機関)が簡単に融資できなくなっている現在のような異常な金融体制下では、事業者は、投資資金のために何十年もかけた研究の成果を、身売りをするような思いで、その権利を半分譲るなどして、国際投資家から資金を募集するしかありません。

 投資家は高い配当や金利を要求するだけでなく、事業の所有権を要求しますから、投資家から利益を搾り取られるだけでなく、事業そのものを乗っ取られるようになります。

 現在の持ち株会社などによる産業界全体に及ぶ支配は、まさに、間接金融が事実上の停止をさせられ、日本の産業界では直接金融で投資家の資金で事業を起こさざるを得なくなって以来、急激に拡大して行ったものです。

 発行済み株式の売買は、既存の生産設備の所有権の売買(共有権)を意味します。株主は、生産設備の所有で配当による利益を上げ、その後、生産設備そのものの売買でも利益を上げます。

 投資家または株主が最も多くの利益を得られるのは、競争相手がいないときです。すなわち間接金融が融資できないときです。

 つまり、固定資産税の重税化で地価が下がり担保力を失い、BIS規制によって担保情況を厳しく監視されることで、金融機関は融資できなくなり、中小企業が資本を調達出来なくなったときに、投資家または株主は濡れ手で粟の莫大な利益を手に入れることが出来ます。

 逆に、間接金融が、現在のような資産制度、およびBIS規制などの金融制度といったルールが廃止され、間接金融が正常に機能し始めると、中小企業が雲霞の如く、生産への投資に参加して来るので、富裕層、国際投資家、既存の株主はほとんど儲けられなくなります。

 しかし、そのときはインフレになり、国民にとって完全雇用が達成され、名目賃金が上がり、たくさんの消費財が巷にあふれるので国民にとって好景気になるのです。バブル以前の日本の国民生活を思い出せばそのことが分かるでしょう。

 国民にとっては、インフレは好景気であり、デフレは不景気です。逆に、大資本にとって、特に輸出企業とその株主にとって、デフレは好景気であり、インフレは不景気なのです。

 富裕層や投資家は金本位制の下でハッピーな経験をしていました。金本位制の下での投資においては、お金の発行量が制限されていたために、富裕層の資金は投資のための希少な財源になりました。だから、資本の蓄積が必要ということで政府も資本の蓄積を支援し、富裕層を優遇していました。

 よって、金本位制の下での投資においては、貯蓄が重要となり、富裕層がお金を貯め込めば貯め込むほど、資本が形成されるので、経済に良い影響が有ると考えられていました。

 「まず、富める者が富まずして、国の発展はあり得ない」というイギリスの元首相のサッチャーの言葉もこのことを意味しています。

 サッチャーが首相になった頃はすでに金本位制は廃止されていましたが、サッチャーも金本位制から脱却したことの意味が分からなかったのでしょう。すなわち、政府の無限の貨幣発行権の獲得によって、財政政策に関するデフォルトが無くなり、物価だけがテーマとなったという体制の変化を理解していなかったし、そして、新たな貨幣発行によって、格差をなくし、国民の平等を達成し、経済を成長させる能力を獲得したということも理解していなかったのです。

 このようにして、ケインズ政策は、驚いたことに、生まれ故郷のイギリスでまったく採用されていません。

 やはり、管理通貨制度により、財政政策に関するデフォルトが無くなり、物価だけがテーマとなったということや、インフレになれば需要が増え、生産が活発になり経済成長が実現し、同時に、貯蓄の実質価値が減少し、格差が緩和されるといった程度のことは、学校や高等学校レベルで教えて、何人といえども知らなかったとは言わせない体制作りが必要のです。

 英国を含む各国政府も、金本位制が廃止された後、管理通貨制度になった意味を認めようとしませんでした。

 それどころか、むしろ、金本位制のときと全く同様の緊縮的な財政政策を変更しようとせず、富める者をますます富ませる政策を実行し続けたのです。

 それはなぜかというと、現代の経済学者たちは、「どうすれば国民が豊かになれるか」、「どうすれば経済成長出来るか」といった普通の国民の幸福の問題を取り上げてもお金になりませんから、最もお金になるテーマである「どうすれば富裕層が金本位制下と同じように利益を得続けることが出来るか」に夢中になったからです。

 これが、現代に受け継がれた、反ケインズ主義の新古典派経済学です。

 いまだに、新古典派経済学では、資本家に好きなように儲けさせ、その貯蓄から投資を行わせれば、経済は最適な状態で成長すると言っています。

 しかし、ケインズが「貯蓄=投資」と定義し、個人の貯蓄は企業の在庫にしかならず、企業の生産の意欲を失わせるにすぎないということ、そして、翌年の投資は今年の売上(消費)によって動機付けられるという分析から明確となったことは、富裕層の貯蓄の増大はむしろ企業の投資をさまたげるという事実です。

 だからと言って、これは資本主義を否定しているわけでも、投資家の利益を忌み嫌っているわけでもありません。

 所得には労働所得と資本収益の二つがありますが、資本収益の全てが労働者の賃金からの搾取によるものではありません。

 仮に、今、資本家は①生産設備を買い、②経営活動をし、③労働者を雇用し、生産設備から設備収益を、経営活動から経営収益を、労働者の賃金から上前をハネる搾取収益を得ているとします。資本家の報酬は①設備収益、②経営収益、③搾取収益の3種類の収益から構成されます。

 しかし、それでも、①②③のいずれかが悪いことだと言っているのではありません。

 人は誰でも楽をして生きていくことを願っています。そのために、発明をし、産業を興し、他人から搾取をし、経済を発展させるのです。その、楽をして儲けたいという欲求を否定すれば、人間は発明や新しい産業を興すことも止め、経済も発展しなくなります。それゆえ、社会主義は失敗しました。

 ①②③のどれもが、人間の人間らしい本質の発露であり、したがって、積極的に肯定すべきものです。

 おそらく、資本主義は人間の到達し得る最後の経済体制であろうと思います。これにとって代わる経済体制はもう出て来ないでしょう。

 しかし、①②③が共に資本主義によって肯定されるとはいえ、際限も無く許されるということではありません。つまり、必要なのは「搾取の廃止」ではなく、「搾取の規制」なのです。

 ケインズは、相続税などで「搾取の規制」をしろとは言っていますが、「搾取の廃止」をしろとは言っていません。

 それは③の労働者からの搾取といえども、搾取が悪いということではなく、それによる貯蓄すなわち資本の蓄積が大きくなれば弊害をもたらすと言っているのです。

 つまり、簡単に言うと、資本主義が悪いのでも、搾取が悪いのでもなく、資本主義や搾取からもたらされる「貯蓄」の増大が悪いのです。

 だから、①②③共に等しく肯定されるのですが、しかし、①②③共に等しく規制されなければなりません。「貯蓄」を生み出すからには、その意味で①設備収益、②経営収益もまた③搾取収益と同罪なのです。

 資本の蓄積は誰にでも出来るわけではありませんから、したがって、資本の蓄積は格差を生み、それが相続されることによって、富裕層と貧困層の階級分裂といった世代を超えた格差が固定化されます。

 そして、現在の日本に見られるように、富裕層は金で政治家や経済学者を抱き込み、税制や金融制度を変えさせ、低所得者や貧困層が自分たちの競争相手にならないように、豊かになることを妨害し、格差の固定化を画策します。

 この悪の循環をもたらす根源が何処にあるかというと、富裕層の貯蓄の増大であり、つまりケインズの言うM2(投機的動機による貨幣保有)の増大なのです。M2の増大が諸悪の根源です。

 ゆえに、M2を減らし、M1を増やす政策を行わなければなりません。

 「必要なのは搾取の廃止ではなく搾取の規制である」ということに対応して、必要な政策は、貯蓄の廃止ではなく、貯蓄の減少を目的とするものになります。

 それでも、あらゆる資金の財源は政府の通貨発行権ですから、資金的に困ることはありません。

 これは貯蓄そのものを没収するのではなく、競争の規制、雇用関係の法的な適正化、税制における法人税と所得累進課税の強化、相続税の強化、低所得者や貧困層に対する減税または課税の廃止、社会福祉や公共投資といった所得再分配のための諸政策を多数併用することによって達成されます。

 これら所得再分配のための諸政策はインフレを起こす政策でもあります。

 インフレを起こすことによって、最も合理的に貯蓄および債権や債務の実質価値を減少させることが出来ます。

 逆に、富裕層の貯蓄を増やしてもロクなことはありません。

 民間に大きな貯蓄があれば、民間で大きな投資が出来るという理屈があるでしょうが、それは一種の幻想です。

 富裕層は利益が見込めないものには投資しません。しかも、気が短いので、短期で手っ取り早く儲かるものばかりに投資し、国民に必要なものや、長期間の地道な投資を避けたがります。また、安全や環境のための経費、国民の尊厳を守るための努力からは逃げ回ります。

 その結果、環境問題や防災の手抜き工事など、地球的な規模で、人類は不幸になりつつあります。

 だから、投資家の収益計画を賞賛したり、そのようなものに期待したりするのは、馬鹿げています。

 富裕層に富を集め、その富を守ってやるなどという政策は、国民にとっては、愚劣極まりないものです。それは、真綿をもって、自らの首を絞めるようなものなのです。

 そもそも、公共投資などの遠大で公共性の高い投資は、民間資本に頼るのではなく、政府がやるべきものです。とりわけ、エネルギーをはじめとするインフラに関連する大きな投資は国家(国民)によって選択されるべきであって、民営化したり、民間にまかせたりしてはならないものです。

 ケインズは、普遍的な社会資本(原子力発電、電気・水道・ガス等のエネルギー、山林・河川、公共交通機関、通信、教育機関、港湾、空港など国家の安全保障の基幹となる部門)を国家の完全な所有すなわち「公有」とし、先進的な文明や文化の相当程度については課税や規制による「社会的共有」とし、その内の一定程度を国民の自由な経済活動に委ねるという社会を想定していました。

 この想定は重要です。正にそうあるべきです。

 私たち底辺の国民にとって、完全な資本主義という新自由主義者の下のみじめな境遇よりも、社会主義に一歩足を踏み入れた方が良いに決まっています。

 金融機関からの融資ではなく、証券市場で得た資金や、大企業が儲けた内部留保金で投資の資金が賄えるというのはむしろ近年見られるようになった異常な事態なのです。この傾向は、すぐにでも変える必要があります。

 投資のための資金調達については金融機関の融資を主軸とすることで、中小企業にもチャンスが生まれ、むしろ、今よりも多彩な新機軸の産業(イノベーション)が生まれるようになります。

 

 

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