①地方の自立などあり得ないし、あってはならない

 

 現在の日本国憲法の草案者がGHQであったとしても、憲法の草案者たちは、国と地方との関係を当時の最先端の感覚でうまく説明しようと試みています。

 すなわち、日本国憲法がアメリカの押し付け憲法であったとしても、全体として目指すところは理想主義であることを認めないわけには行きません。

 むしろ、否定されるべきは、第9条以外ではほとんど無いと言って過言ではありません。

 日本国憲法および地方自治法においては、国と地方の関係を次のように定めています。

『憲法第九十二条

 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める。

地方自治法第一篇総則

第一条

 この法律は、地方自治の本旨に基づいて、地方公共団体の区分並びに地方公共団体の組織及び運営に関する事項の大綱を定め、併せて国と地方公共団体との間の基本的関係を確立することにより、地方公共団体における民主的にして能率的な行政の確保を図るとともに、地方公共団体の健全な発達を保障することを目的とする。

第一条の二の1

 地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。

第一条の二の2

 国は、前項の規定の趣旨を達成するため、国においては国際社会における国家としての存立にかかわる事務、全国的に統一して定めることが望ましい国民の諸活動若しくは地方自治に関する基本的な準則に関する事務又は全国的な規模で若しくは全国的な視点に立って行わなければならない施策及び事業の実施その他の国が本来果たすべき役割を重点的に担い、住民に身近な行政はできる限り地方公共団体にゆだねることを基本として、地方公共団体との間で適切に役割を分担するとともに、地方公共団体に関する制度の策定及び施策の実施に当たって、地方公共団体の自主性及び自立性が十分に発揮されるようにしなければならない。』

 憲法にも出て来る「地方自治の本旨」とは、「法律をもってしても侵害できない地方自治の核心部分を指す」とされ、具体的には「住民自治」及び「団体自治」を指すとされています。

 国権は、立法権、司法権、行政権の三権に分立し、「中央政府」はこの内、一般論として行政権だけを指すと考えられていますが、事実上、「中央政府」は多数決の原理によって立法権、司法権、行政権の全てを掌握しています。

 よって、「中央政府」は国そのものと見るべきであり、特に自治体に対する責任において、一般的概念としての国と、国民の政府という意味の中央政府を分離して考えるのは、中央政府の力の及ばない国という中立的な主体が存在するかのような印象を与え、中央政府は責任を免れてしまうので、議論を進める上で妥当ではありません。

 その意味で、以降、「国」「中央政府」を同義のものとして議論します。

 地方自治体は「国」または「中央政府」に従属します。

 「法律をもってしても侵害できない」とか、「中央政府の干渉を受けない」とかは、あくまで、あらかじめ法律で、中央政府が干渉しない部分(言論や運動の自由)が指定されているというに過ぎないのであり、中央政府に対する一定程度の批判や反論の権利(自由)を持っているということを表現したものにすぎません。

 すなわち、強制的な指導力という意味において中央政府から解放されているということはありません。

 現実には、地方自治体には「中央政府の立法権をもってしても侵害できない」権限は存在しないし、「中央政府の干渉を受けない」自由も存在しません。

 例えば、どこかの市町村が独自の保安部を作って、国の警察権を排除するようなことは出来ません。地方が解放区であるような表現はレトリックにすぎず、事実は、地方政府の隅々まで中央政府の統治機構の支配下から逃れることは出来ません

 地方自治法第一篇総則第一条の二の2には、「国」は、「国際社会における国家としての存立にかかわる事務」および「全国的な規模で若しくは全国的な視点に立って行わなければならない施策及び事業の実施、その他の国が本来果たすべき役割を重点的に担う」と表わされています。

 そして、「住民に身近な行政はできる限り地方公共団体に委ねることを基本として、地方公共団体との間で適切に役割を分担する」としています。

 つまり、地方自治体は、国から「国が本来果たすべき役割」の一部を委ねられているだけの代理人にすぎないということです。

 全国的な視点に立って行わなければならない事業については中央政府が国が本来果たすべき役割」について責任を持ち、地方自治体はその代理人として「重点的に担う」ものであるという位置付けが行われています。

 法律をもってしても侵害できないとか、自主性及び自立性の尊重とかの抽象的な文言を楯にとって、自治体が中央政府から独立して権利を主張できるかのように考えている者がいて、あたかも、住民の意思である種の解放区を創設出来るような錯覚をしている者がいますが、それは浅はかというものです。

 あるいは、権力の分立として捉える人もいますが、まったく妥当ではありません。ましてや、地方自治の独立などの能天気な話はあり得ません

 例えば、議員の数については、地方自治法第二編第六章第九十条で、5万人以上10万人未満の市町村については30名以下などと細かく定められています。これを、自分の自治体では出来るだけ多くの議員に参加してもらおうとして、100名と定めることは出来ません。

 また、議員報酬についても、地方自治法第二○三条によって、地方公共団体はその議会の議員に対して議員報酬を支払わなければならないとされていたものが、平成20年の改正により、より精密に支払わなければならない対象者を規定しており、そういった法律の定める規定に基づいて支給しなければなりません。

 これらは、法律が国民に普遍的に適用されるべきものとして定められているということです。地方自治体の住民に対する行政サービスも国の定める法律に従わなければなりません。

 さらに、地方自治体の行政サービスの細部についても、どこまでが中央政府の権限で、どこまでが地方自治体の権限なのかも決めることが出来るとはいえ、それはあくまで国家の法律によって決められるのです。

 このような「全国的な規模で若しくは全国的な視点に立って行わなければならない施策及び事業」において、地方自治体の自主性や自立性を発揮できる分野はほとんど存在しません。

 もし、あっても、わずかなものであり、都市計画や福祉についてオプションを付ける程度のものにすぎません。

 念のために言っておきますが、私は、地方自治体に自主性があった方が良いと言っているのではありません。自主性の発揮できる範囲が多少広がったところで、根本において、国民主権の実行者である「中央政府の代理人としての地方自治体」という本質は変わらないと言っているのです。

 そして、地方自治体のあらゆる財源も、中央政府の通貨発行権に由来しています。

 地方の財政を、一つの企業のように自由であるかのように言う者がいますが、自分で自由に収入源を変更して、自分で自由に使い道を決めるようなことは認められていません。

 正確に言うと、その90%は使い道が決められており、残りの10%を自分たちの決めた道路を作ったり、福祉センターを作ったり出来る程度です。

 一部の裁量を許されているだけで、それは、あくまで、国に許されてやっているに過ぎません。財政や教育、農政、において、国の端末であるのは明らかです。

 そして、それが国家の一部である限りは、どんな解釈をやり直そうとも、法律で元に戻されます。

 経済政策においても同じことです。

 中央政府の役割は所得再分配であり、地方自治体の役割はその一部を担うのみです。地方自治体は、国の方針に従って所得再分配を行うのであり、それ以外のいかなる独創性も認められないのです。

 そして、中央政府のあらゆる財源は中央政府の通貨発行権にあり、地方自治体の財政についても、当然ながら、中央政府に従属していますから、地方自治体の財政は中央政府の通貨発行権の行使の端末であるにすぎません。

 地方自治体が中央政府の代理人であるからには、中央と地方の財政の分離は不合理です。

 あえて、「自治体の自主性の強化」いう意味を考えるならば、財政均衡に取り付かれた中央政府による、財政的な地方の切り捨て以外にありません。なぜなら、「自治体の自主性の強化」は不可能であり、言葉遊びにすぎないのであって、その実体は、国の責任の緩和しかないからです。

 「自治体の自主性の強化」という掛け声によつて、中央政府が地方自治体への所得再分配を縮小すれば、地方自治体は、これまでの実例として、議員や職員の待遇を守るために、住民から固定資産税や住民税を搾り取り、住民を貧困化させるようになります。

 そして、地方の居心地が悪くなれば、住民は地方から逃げ出し、東京その他の大都市に移住して行きます。地方の居心地が良ければ、地方に居続けます。

 中央政府は固定資産税を主軸とする地方税を自主財源だとか言い、地方税収だけで行政サービスを行えるようになることが理想だとか言いますが、詰まるところ、そうした地方自治体の自主性は中央政府による地方財政の切り捨て、つまり、地方への所得再分配のサボタージュの言い訳にすぎないのです。

 そう考えるなら、地方自治体の本来あるべき役割は、国民に普遍的な行政サービスを国に代わって代行すると同時に、「地方自治の本旨」に基づいて、住民に代わって中央政府の失政に対して異議申し立てを行うことであることが明確になります。

 「地方自治の本旨」は、自治体の重い使命であり、個人おいては基本的人権の行使に該当するものであり住民(国民)が人として生きるか死ぬかの選択を任されることなのです。

 「異議申し立て」の権利の行使において、初めて、「法律をもってしても侵害できない地方自治の核心部分」としての「地方自治の本旨」が意味づけられます。

 そして、それ以外に「法律をもってしても侵害できない地方自治の核心部分」というものは存在しません。

 すなわち、「異議申し立て」以外に「地方自治の本旨」という言葉の意味はありません。

 そして、地方行政について、地方公共団体外に、中央政府に異議申し立てが出来る団体はありません。

 上記で、私は「地方自治の本旨」は基本的人権に該当するものだと言いましたが、基本的人権は法律から自由になることではありません。

 基本的人権とは、行政のやり方に対する「異議申し立て」、および、不合理な法律の存在そのものに対する「異議申し立て」を行う権利を言います。

 前者は裁判で、後者は国会議員選挙で行います。

 例えば、中央政府に頭のオカシイ者がいて、どんな時でも節約は良い事だと勘違いし、ところ構わず緊縮財政ばかりやっていたら、最も被害を受けるのはマクロ経済の端末である地方財政であり地方住民です。

 その時は、地方自治体が、「地方自治の本旨」に基づいて、中央政府に対して異議申し立てをしなければなりません。

 しかし、そのためには、首長自身が、「地方自治の本旨」に違えることなく、住民の貧困化に対する激しい憎悪の感情を持ち、相当程度のマクロ経済の知識を身に付けて、異議申し立てを行わなければなりません。

 首長の責任は重大であり特に住民の貧困化に対する無関心とマクロ経済学の無知は、住民にとって致命的なのです。

 

 

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