①労働者のプライドは法律から生まれる

 

 労働者のプライドは正しい社会体制からのみ生まれます。労働者よりも投資家や債権者の方が尊重される法律や社会の仕組みの中では、労働者はプライドを持つことが出来ません。

 すなわち、プラグマチックに言うと、労働者にプライドを持たせる体制のみが正しい体制であるということです。

 ただし、共産主義などのように、労働者がプライドを持ち、かつ、間違っている体制はあり得ます。しかし、すくなくとも、労働者がプライドを持てないのに、これはつまり今の日本のことですが、その体制が正しいなどということは絶対にないということは確実に言えます。

 かつて、日本では、労働者は自分が勤める会社のことを「俺の会社」と言っていました。

 法律や労働組合が強い力を持てる社会の仕組みによって、会社は生産と雇用をもって社会に貢献すべきであることが一般的に理解されていたし、同時に、労働者は確固たる地位を持つことが出来、生産と雇用の監視役でもありました。

 なぜなら、労働者の立場は、労働に関する法律と政府の断固として永久的な所得再分配政策によって、厳正に守られていたからです

 それゆえ、会社は労働者の立場をないがしろに出来ず、労働者は、その会社の労働者であることにプライドを持つことが出来たのであり、したがって、胸を張って「俺の会社」と言っていたのです。

 日本人は組織への帰属意識が強いという国民性があると言われていますが、むしろ、そうした抽象的な心理によるものではなく、厳正な法律や終身雇用制という制度的枠組みから生まれた会社との一体感が、「俺の会社」という意識を持つことを可能にしていたのであると言えます。

 そもそも、19世紀の資本主義の荒波の中で、マルクス主義以前の伝統的な社会主義は何と言っていたのでしょうか。それは、労働者を人間として扱えと言って来たのです。

 そのためには、労働者自身が、自分の労働力を高く売り、自らの運命を切り開けるような交渉の足がかりが必要です。

 ゆえに、労働者が会社に意見を言うための力を持った労働組合があり、法律がこれを支えていたのです

 労働者の発言の場を支えていた究極の根拠は法律でした

 よって、労働者は自分の会社を「俺の会社」と感じることが出来たし、社会に対しても胸を張って「俺の会社」と言うことが出来たのであって、しかも、それは突飛な感情ではなく、法律と国民感情に根ざした制度を土台としたプライドの発露でした。

 本来会社はその法律的、制度的な意味において公器であり、すなわち、株式を保有しなくても労働者自身のものであり、国民のものであることによって、はじめてその存在が許されているものです。

 株主が自分の力だけで会社を維持していると思うのは大きな勘違いです。

 会社が存在し、株主で居られることは、国家から、生産と分配をしっかりやるという約束の下に、株主が利益を少しだけ自分のものにするチャンスを与えられているにすぎません。

 国家と国民から許可され、初めて会社は存在しています。

 ところが、1989年に冷戦が終結して以来、日本の歴代政権は、労働者の権利を弱体化し、労働組合の発言力を抹殺する政策に舵を切りました。

 特に、小泉政権以降においては、企業は株主の所有物であるという一面的なことが強調され、労働基準法などによって制度的に公器として国民全体のものであるという側面は無視され、株主の利益を優先する風潮を作り出しました。

 そして、いまや、労働組合は大企業側と取引をし、弱者を切り捨て、自分さえ良ければ良いという者の集団となり、その戦わないことを選択した労働組合の裏切りによって、労働者は使い捨てのような存在になっています。

 麻生太郎氏もこれに加担しました。

 時代が株主至上主義に変わろうとしていた時に、これに疑問を持つきっかけとして、「会社は誰のものか」というテーマが面白いテーマとしてマスコミが麻生太郎氏に質問をしたときに、「かつて、会社が株主以外のものであったということは聞いたことがない」と言って、一瞬にしてこの話題を葬り去りました。麻生太郎氏は最もタチの悪い役割を果たしたのです。

 このとき、法律によって労働者の権利が守られている限り、会社は公器であり、国民のものであるという議論をすべきだったのですが、麻生太郎氏はそれを足蹴にしてしまったのです。

 むしろ、もともと、麻生太郎氏は富裕層の出身であり、労働者の味方であったことはありませんから、始めから労働者の敵であったと理解すべきでしょう。このとき、本性を表しただけなのであろうと思われます。

 私はそのことが判らなくて、かつて麻生太郎氏を所得再分配派のごとく錯覚し支持していたことを、今となっては恥と思っています。

 現代は、労働者は使い捨てにされる原材料の一つに過ぎなくなり、かつての日本の労使関係からはまるで別世界のような様相を呈しています。

 今、問題になっている、大手飲食業のアルバイト店員が不潔な行為を動画サイトに投稿するのが流行っていることについては、これは、現場にそれを止める正社員や先輩がいないことによって起こっているものです。つまり、経費節減によって起こっていることであって、同情する必要のない自業自得の出来事なのです。

 昔は、必ず、アルバイトは現場の正社員の下で厳重に監督され、少々出来の悪いアルバイトがいたとしても、このような悪質なまねは出来ませんでした。ところが、いまや、現場に正社員は居なくなり、職場に愛情を持っている先輩も居なくなりました。これが、自民党の働き方改革の結末なのです。

 歴代の自民党政権および竹中平蔵氏などの政治家たちによって、法律は企業が労働者を搾取するためだけのものに変えられました。そのとき、労働者の職業人としてのプライドも破壊されたのです。

 確かに、人治のやり方、すなわち、経営者の善意に依存するやり方でも、労働者の待遇の改善はあり得ます。しかし、そのことは、翻って、首を切られるときは、経営者の気まぐれによって行われることがあり得るということでもあります。

 しかし、このようなものは権利とは言いません。卑屈な主従関係で生きながらえているだけのことです。

 連合のように、現在において正規雇用されている者たちを守る代わりに、新規採用はすべて非正規雇用とすることに同意するような、奴隷根性丸出しの取引は止めるべきです。

 労働者がプライドを持って生きて行くためには、企業から引き出した一つや二つの特別待遇ではなく、「労働者は毎年待遇の改善を要求できる」と書かれた法律による弛まざる待遇改善が出来る立場が必要なのです。

 そして、法律によってのみ、会社に対する、解雇されない権利、国民の一員としての正当な待遇を得る権利が確立され、労働者の職業人としてのプライドも確立されます。

 法律をもって行う以外に、労働者の権利であろうと、プライドであろうと、何者も得ることは出来ません。

 公器ということを考えて見れば、この世には、何ひとつ個人の無制限な自由の下に存在して良いものはありません。なぜなら、あらゆる人間的存在他人の存在に依存して成り立っているです。

 また、経済活動とは、他人の生産したものをいかに手に入れるかということであり、完全な自給自足は存在しません。ゆえに、あらゆる人間的存在、資本家もまた他人に対して義務を負い、国民および国家の下に拘束されなければならないのです。

 そして、全ての人間の生存に対して最も貢献度の高い者が尊敬され、すなわち労働者が、この世において最も報われるべき存在にならなければなりません。

 すなわち、社会への貢献者が最も報われるべきであるという道徳の名において、労働者は肩で風を切って街を闊歩し、投資家や債権者は貸金業者として、の然るべき地位において、隅のほうで小さくなっていなければならないはずなのです。

 それが真っ当な世界観というものです。

 

 

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