夏の日差しの中で・・・ | それでも僕等は

それでも僕等は

REI RINGONO Second Blog.

僕が初めて彼女の顔を見たのは、
高校を入学してのクラス分けで教室に入った時だったと思う。
たまたま隣の席になったのが彼女だった。
彼女は少し緊張したように僕を見た。
僕は彼女の端正で美しい顔に見とれてしまった。
そして彼女の持っていた学生鞄に目をやった。
そこにはインレタで“YOUKO SHICHIYOU”貼られていて、
剥がれないように上からテープで留められていた。
そのインレタはヘルベチカ・メジウムといって僕の好きな書体だった。
僕は彼女の美しい顔立ちよりも、
同じ書体のインスタント・レタリングを使っていることで彼女を気に入った。
先生が来る前に少し彼女と話した。
彼女の名前は「七曜陽子」と云った。
なかなか名前を名乗ろうとはしなかったが、
僕は自分から名前を云って彼女の名前を聞こうとした。
僕の名前を聞いて彼女はますます目を伏せて、蚊の泣くような声で名乗った。
何故、彼女がそこまで内気なのか、その時はまだ分からなかった。
春の日差しはまだ柔らかく、彼女を優しく包んでいた。

高校生活を続けていくうちに、
徐々にいろいろな事情というものが分かっていった。
彼女は同じ中学の出身だった。
それなのに初めて顔を見るというのは変な話だった。
その後、友達からいろいろと話を聞いて、彼女が“ヤマ”出身者だと知った。
“ヤマ”とは僕の住んでいる町の外れにある小高い丘のことで、
本来の「山」という概念からは少しかけ離れた小さなものであった。
それでも漁師町で住人の大半が漁業か農業に従事している小さな村では、
それは確かに「山」であった。
そして住人から“ヤマ”と呼ばれている場所に住んでいる人たちは、
昔から町の住人とは区別されていた。
正確に云えば差別されていたといった方がいいかも知れない。
“ヤマ”に住む人は昔から人々がやりたがらない仕事に従事していた人たちだった。
戦後も暫くは土葬が続いたこの町では、
土葬に従事する人々が墓地のある“ヤマ”に住んでいて、
普段は忌み嫌われていて町で買い物さえ許されなかった。
戦後は戸籍も作られ、子供たちも地元の学校に入学できたが、
それでも特別な教室に押し込まれ、
町に住む人たちと同じ授業にでることは許されなかった。
だから同じ中学出身でありながら、彼女の顔を見たことはなかったのだ。
さすがに高校になると県立で地元の人間が大半を占めてはいるが、
同じ市内の中学からの進学者が入り乱れ、
市内の特別な地域の“ヤマ”に住むものでも町に住む人たちと同じ教室になった。
寧ろ、“ヤマ”に住む子供が中学より先に進学することはほとんどなかったので、
特別な教室というものも事実上作られなかった。
彼女は入学した時から新品の制服を着ていた。
それは普通の高校生にとっては当たり前のことだが、
“ヤマ”に住む人たちにとって、
ほとんど現金の収入というものがない人たちにとって、
子供に新品の制服を着せて高校に行かせるというのは、
たとえ授業料の安い県立高校とはいえ、並大抵の苦労ではなかった筈だ。
それでも子供を普通の人間として生きさせたいという親の強い願いが、
相当の無理をしてでも彼女を高校に行かせたのであろう。
“ヤマ”に住む人たちは昔から町に出ることが許されなかったため、
同じ一族で結婚を繰り返していた。
だから所謂“血が濃く”なっていて、
そのために脳の発育に問題のある子供も多かった。
でも彼女からはそういったことは全く感じられなかった。
人から“ヤマ”出身者と云われなければ、
普通の町に住む人と区別がつかなかった。
僕は町に住むものとして幼い頃から“ヤマ”については両親から聞かされていたし、
決して“ヤマ”に近づいてはいけないと強く諭されていた。
ましてや“ヤマ”の人たちとは絶対に口を聞いてはいけないと云われていた。
だが、何故そこまで彼等を忌み嫌うのか全く理解できなかった。
僕は時間が経つに連れてどんどん彼女に惹かれていった。

1学期も終わりに近づいた頃、僕は勇気を出して彼女に告白した。
彼女は困ったような顔をして「それはいけない」と云った。
彼女は自分が“ヤマ”出身者であることを自覚していたし、
たぶん両親から決して町の人間と深く付き合ってはいけないといわれていたのだろう。
そうすることが“ヤマ”に住むものとしての掟なのだと・・・。
僕は困惑の表情を見せる彼女にそれ以上強く交際を求めることが出来なかった。
これ以上強引に誘ってしまうことは、
彼女を傷つけることになると思ったからだ。
しかし本当にそうだったのだろうか。
本当にそれだけだったのだろうか・・・。
町に住む人間として、“ヤマ”に住む人への差別意識を拭えなかったのでは、
或いは町に住むほかの人たちから後ろ指をさされることに、
無意識に脅えてしまっていたのかも知れない。
僕には勇気がなかった。
僕は臆病だった。
1学期の終業式の日、その日は朝から暑かった。
教室にいても汗が額からしたたり落ちるような暑さだった。
ホームルームが終わってみんな帰り支度を始めた時、
珍しく彼女の方から僕に話しかけてきた。
そして最後に小さな声で「ありがとう」と云った。
その言葉の意味がその時はよく分からなかった。
夏の日差しが彼女を照らし、
逆光の中で彼女の顔が良く認識できなかったが、
それでもその表情は僕の記憶の中に強く鮮明に刻まれていた。
何故ならば、それが彼女との最後だったからである。
2学期から彼女は登校しなくなっていた。
いつの間にか退学届けが提出されていた。
そして夏の間に“ヤマ”に住む人たちが居なくなった。
引っ越していったわけではない。
ただ、忽然と居なくなったのだ。
それは僕には良く理解できなかった。
何故、人が、しかもそこに住む幾つかの家族が突然居なくなったのか・・・。
それが大人達の事情だと云われても、納得できなかった。
ただ、七曜陽子の最後の表情が、僕の記憶の中に深く刻まれ、
それは決して忘れることはなかった。
また夏が来て、強い日差しを感じる頃になると、
高校の教室で1学期の終わりに彼女が見せた逆光の中の微かな表情が、
僕の頭の中で強い光を放って蘇ってくる。

今は再開発で嘗て“ヤマ”と呼ばれていた場所には道路が出来て、
京葉道路武石ICと幕張メッセを結ぶ県道となってしまい、
かつてそこが“ヤマ”と呼ばれていたことも人々の記憶から薄れつつあるけれど、
僕はこの道を通るたびに、
人々が、大人達が語ろうとしない触れてはいけない真実を、
どうしても記憶から押し出すことは出来ないでいる。
彼女の逆光の中の表情とともに・・・。

※この作品は林檎乃麗が見た夢を元に書き下ろしたものであり、
実在の人物、学校、地域及びその慣習などとは関係ありません。
悪しからず、ご了承下さい。

2004/08/03 22:09

ASAHIネットの電子フォーラム、serori・networkの、
会議室「短文文筆家集合所」に発表したものを転載しました。