施設に父を預けてから、私はようやく仕事や自分のことを意識できるようになっていた。
今は施設で、昼も夜も介護士さんが見守ってくれている。
その安心感は、私にとって計り知れないものだった。
──そのはずだった。
父がショートステイ先でそのまま生活を始めてから、一週間ほど経った頃だっただろうか。
ケアマネジャーから一本の電話が入った。
「今朝早く、お父様が施設を抜け出し、転倒され救急搬送されました。」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「現在は施設に戻られていますが、額を大きく切り、病院で縫合しています。」
驚きのあまり、言葉が出なかった。
その後、施設長から説明があった。
本来なら私にすぐ連絡を入れるはずだったが、連絡先を間違えてしまい、私への連絡が遅くなったという。なんで??
「申し訳ありませんでした。」
謝罪の言葉は聞こえていたが、頭の中では「いったい何が起きたの?」という思いだけがぐるぐると回っていた。
慌てて兄と施設へ向かった。
そこには、額を大きく腫らし、うつむいて椅子に座る父の姿があった。
その姿を見た瞬間、涙があふれた。
どうして……。
どうして施設を出てしまったの?
どうして誰も止められなかったの?
そんな思いが次々と押し寄せた。
でも、その一方で分かっていた。
父は、それまで何度も徘徊を繰り返してきた。
自宅では、もう私一人の力では見守りきれなくなっていた。
だから私は施設にお願いしたのだ。
頭を下げて、「どうか父をお願いします」と預けたのは私だ。
誰か一人を責められる話ではなかった。
それでも苦しかった。
胸が締めつけられるほど苦しかった。
けれど、父を連れて帰るという選択肢もなかった。
この状態の父を、自宅で24時間介護することは、私にはもうできなかった。
施設長から、父が外へ出てしまった経緯や、その後の対応について説明を受けた。
話を聞き終えた私は、最後にもう一度、頭を下げた。
「父を、どうかよろしくお願いします。」
それは、家族として何度も自分に問いかけながら下した、苦渋の決断だった。
このときの姿を思い出すと今でも涙がでてしまう。