皆さまこんにちは!

 

大変お待たせいたしました。

 

連休前まで書いていたこのシリーズ!!!

 

わたしのつまらない一人語りでございます。

 

 

シリーズその①

 

シリーズその②

 

 

シリーズその③

 

 

*************

 

さて時は2008年8月に遡ります。

 

わたしは父から神社に呼ばれ

 

修行の内容をそろそろ変更するように

 

言われました。

 

そのとき「神呼び」という技術を

 

教えてもらったのです。

 

わたしは亡き父のように

 

神様のエネルギーが憑依したまま

 

霊視するような業が出来ませんでした。

 

言うなれば父は神様エネルギーと

 

一体化できる修行を重ねてきた霊能者で

 

わたしが神様のエネルギーを媒体として

 

霊視結果をお伝えするには

 

体質上どうしてもそういうことが

 

出来ないので神様のエネルギー体を

 

お呼びして読み取らせていただくという

 

技術を身に着ける必要がありました。

 

ところがわたしは神々のエネルギーを

 

呼ばせていただくと、言葉が出てこず

 

涙が止まらなくなるのです。

 

 

・・・ほんとにこれじゃ

 

まったくもって仕事になりません💦

 

なので神呼びは

 

修行というよりもただの

 

浄化の場で終わるということを

 

繰り返していました。

 

その理由として第一チャクラの弱りを

 

指摘されていたので歩き行と

 

写経は自宅でも行うように指導され

 

滝行は一度行ったものの

 

あまりにもわたしが敏感になりすぎるので

 

「滝行はお前はせんでええ」

 

と言われ、代わりに水場のお掃除

 

自宅の水回りをきれいにすることなど

 

教わりました。

 

この時期、わたしは父のある変化に

 

気づいていました。もう長く立って

 

歩くことができなくなっていたのです。

 

それでもわたしの行のときは

 

いすに腰掛けたまま

 

わたしが知らずに

 

ちょっと変なモノと交信が

 

始まると棒などが飛んできました。

 

そんなふうなので

 

なんだかんだ父は元気なのかなと

 

思っていました。

 

2008年11月

 

わたしはいつもの修行が終わった後

 

父と母とダメ夫と4人で

 

父が行きつけの焼肉屋さんで

 

食事をしました。

 

父もたくさん食べ、母もにこにこと

 

肉を口に運び、ダメ夫とビールを

 

酌み交わす父。

 

この日、わたしは


本当に幸せ者だなぁと心から

 

思ったのです。

 

そしてこれからも

 

父のもとでしっかり修行して

 

父のように人様のお役に立てる霊能者に

 

なれたらいいなぁと初めて

 

霊能者という仕事に

 

対し、真摯で前向きな

 

気持ちになりました。

 

 

この幸せな夕餉が

 

まさか元気だった父と母と一緒に食べた

 

最後の夕食になるなんて・・・・

 

そのときは夢に思いませんでした。

 

2008年11月8日

 

その日、父から慌てた声で

 

わたしに電話がありました。

 

「母さんの様子がおかしい」と。

 

父は神社の行事があり

 

どうしても外出ができなかったので

 

わたしが車を飛ばして母の家に

 

行くと、母が

 

「あら、なんで来たん?

もうご飯食べたん?」

 

とわたしを気遣うので

 

一瞬、父が大げさだったのかと思いました。

 

しかしその数秒後、母がおかしなことを

 

口走りました。

 

「神社に持って行くおかずを

つくらんと」

 

そのおかずは先ほど

 

母が父のために持って行った

 

ばかりだったのです。

 

これはおかしい!と思ったのですが

 

母が苦しがっている様子もなく

 

見た目は普通、ただ錯乱してるだけに

 

みえたので車でこの辺では一番大きな

 

病院に連れて行きました。

 

車内でも母は「あめ食べる?」と

 

気遣ってくれるのですが

 

体が熱いので熱があるのがわかります。

 

 

 

病院の受付で熱を測り

 

しばらく待つこと30分程度。

 

 

 

そう、このとき、問診カルテの症状では

 

まだ母のあの恐ろしい病気に

 

気づくわけがなく

 

ただの風邪のように

 

思われていたのかもしれません。

 

実際、母も

 

「お腹すいた。終わったら食堂いこう」

 

と言ってたので

 

わたしも呑気に「うんうん、風邪だろうから

 

なんかあったかいもんたべようか」

 

と遅くなったランチを


楽しみにしていたぐらい

 

でした。

 

ただ、だんだん熱くなっていく母の体が

 

心配になってきました。

 

 

母は「大丈夫」というのですが

 

どこかで休ませてもらえないか

 

看護師さんに聞こうと


思って立ち上がると

 

ようやく、母の名前が呼ばれました。

 

 

そして診察。母が錯乱していること、

 

高熱があることを話した瞬間、

 

お医者さまの顔が険しくなったように

 

思えました。

 

お医者さまは

 

母にいくつか簡単な質問をしました。

 

医師「お名前は?」

 

母「えっと・・・・」

 

医師「お母さん生年月日は?」

 

母「えっと・・・3月?」

 

 

ここでお医者さまがあきらかに慌てて

 

スタッフを呼び始めました。

 

診察室は騒然とし始め

 

たくさんの

 

看護師さんたちが走ってきました。

 

 

そして母をストレッチャーに乗せて

 

「ICUに移動して」

 

と差し迫った声で指示するお医者様・・・・・

 

そしてわたしのほうを振り返り

 

「落ち着いてくださいね。

お母さんは今大変危険な状態です。

髄膜炎、もしくは

脳炎を起こしている可能性があります」

 

「・・・え?さっきまでお腹すいたって

言ってたのに?」

 

こんなバカな応答をするほどに

 

わたしには「危険な状態」

 

がわかりませんでした。

 

 

「あの、母はいつも自分の

住所とか娘の名前とか

忘れちゃうんでいつもの

ことじゃないかと・・・」

 

まだ能天気なことを言うわたしに

 

「はい、しかしとても危険な状態ですので

今から処置に入ります」

 

と医師は席を立ち

 

わたしは看護師さんに

 

促されて外の待合室に案内されました。

 

 

気が付いたら

 

看護師さんに支えてもらって

 

歩いていたので

 

意味がわからないながらに

 

かなりショックを


受けていたんでしょうね。

 

 

看護師さんが

 

脳炎や髄膜炎どちらかわからないけども

 

どちらにしても大変危険な病気であること

 

いずれにしても

 

対応できる病院はこの地域では


ここだけだから


本当にラッキーだったよと

 

おっしゃっていました。

 

 

父に母が危険な状態であることを

 

伝えると状態と病名がわかるまで

 

病院にいてほしいと

 

いうのでそうしました。

 

 

気が付いたら全身が震えていて

 

母が死ぬかもしれないと

 

ようやくはっきり


理解したのでした。

 

 

その日は夜まで病院にいましたが

 

母の病名は脳炎の可能性が高い

 

というところまでしか

 

わかりませんでした。

 

 

車を運転してきたのですが

 

どの道を通って自宅に戻ったのか

 

すっぽりと記憶が抜け落ちています。

 

 

本当の病名がわかったのは

 

母がICUに運ばれて

 

2日ほど経ってからでした。

 

母を襲った病気は

 

ヘルペス脳炎というものでした。

 

 

 

このとき医師から告げられた

 

母の状態での生存率は30%でした。

 

一命を取り留めたとしても


重篤な後遺症が残ります。

 

 

実際、1か月半近く生死をさまよい

 

なんとか意識を取り戻したときには

 

あの元気で


おしゃべりだった母とは


別人のようになってしまいました。

 

病後14年近く立ちましたが

 

出来ることは限られており

 

高次脳機能障害を抱えています。

 

 

 

さてこの時期

 

母が倒れた11月8日から

 

2週間ほど経った頃

 

食事の管理などがどうしても

 

難しい父を一旦

 

病院に預けることになりました。

 

 

 

というのも母が倒れた日から

 

しばらくたって

 

なぜか父も体調を崩しており

 

スタッフさんの話では

 

社務所のそばにある

 

父の自室で寝てばかりいたそうです。

 

 

母の病院にも行かねばならないし

 

父の看病までは

 

どうしてもできなかったので

 

医師に父の状態を話すと


入院させてもらえるとのことでした。



入院してね、と言うと


病院大嫌いな父が反抗もせず

 

素直に入院してくれたのが

 

不思議でしたが

 

今思うと、相当具合が悪かったのかも

 

しれません。

 

 

母は生死をさまよっている。

 

父は体調が悪い。

 

別々の病院だけど

 

二人そろって入院するなんて

 

仲がいいのか悪いのか・・・などと

 

集まった家族で話をしていました。

 

 

そしてある時

 

父の着替えなどを持って

 

病室に行くと

 

看護師さんから

 

「お父様、いくこさん(わたしの事)

 

が食べさせてくれるまでは


食べないって言ってるから

 

よかったら

 

ご飯をたべさせてあげて」

 

と笑いながら(呆れて)


おっしゃってたので

 

母が重篤な状態なのに

 

いい加減にしろよと思いましたが

 

看護師さんの言うとおり


ご飯に

 

まったく手を付けてなかったので

 

食べさせてあげることに💦

 

 

 

まさかこれが最後の親孝行?に

 

なるとは夢にも思いませんでしたが


わたしが匙で運んだゼリーを


美味しそうに食べるので


なんだか父が可愛くて


くすくす笑いながら


食事をさせました。

 

 

それから3日後、そろそろ父の顔を

 

見に行かないとまた看護師さんに

 

迷惑をかけるので病院に行こうと

 

準備していたら

 

電話がかかってきました。

 

 

電話は担当医師からで

 

父が危篤であること。

 

もう心臓マッサージをしている段階で

 

あることを聞きました。

 

 

急いで病院に着いたときにはもう

 

ほとんど絶望的な状態。

 

お医者さまのご配慮でわたしたちが

 

間に合うよう


必死にがんばってくださってた

 

状態でした。


到着して

 

5分も経たないうちに

 

ご臨終の宣告を受けましたが


お医者さまのおかげで


臨終に立ち会えたこと


本当にありがたかったです。

 

 

父が息を引き取ったのは


12月10日、母の入院から

 

1か月経っていました。

 

 

死因はサルモネラ菌が

 

原因の炎症に伴った


腎不全の悪化でした。

 

 

つまり食中毒を


起こしたのですね💦

 

腎不全の治療中にも

 

関わらず、厳しい食事管理をしていた

 

母がいないことをいいことに

 

イカの刺身を食べていたと後から

 

知りました。

 

本当に父は最後までおバカな男でした。

 

 

母はまだこのとき意識のない状態で

 

病と闘っていました。

 

最愛の夫がまさかのサルモネラ菌で

 

死んでしまうなんて

 

思ってもみなかったと思います。

 

 

母は1か月半意識不明でしたが


父が亡くなってから

 

1週間後


生存率30パーセントを


越えて、奇跡的に


一命を取り留めたのでした。

 

 

意識を取り戻し

 

一番心配だったのは

 

やはり父のことだったようで

 

「お父さん元気?」

 

と何度も尋ねてきました。

 

 

父が亡くなったことを

 

母に伝えたのは

 

リハビリがある程度終わり

 

自宅に戻ってきた

 

2009年の1月半ばでした。

 

そこで初めて

 

父が亡くなった話をしたのですが

 

特に悲しむことなく

 

父の死に関しては

 

すんなり受け入れてました。

 

高次脳機能障害で

 

いろんなことが

 

わからなくなっている母ですが

 

なぜかそのときは

 

「あんたたち大変やったねぇ」

 

とねぎらいの言葉をかけてくれたのを

 

覚えています。

 

そして父がこの世の人でないことは

 

14年経った

 

今でもちゃんと理解していますが

 

多くの事ができなくなっても

 

母は母なのだなと

 

命が助かったことが

 

本当にありがたかったです。

 

 

さて父が亡くなったとき

 

わたしは39才でした。

 

妹弟も30代でしたが

 

いくつであろうと

 

親を看取り葬式を出し

 

その後の後始末をするのは

 

本当に大変でした。

 

*私はこのあと姑をとして

同じように看取りましたが

父や母のときとは看護のやり方が違う。

親戚との距離感など

やはりケースバイケースであること、

親を介護する→

親が死ぬ→葬式を出す→後片付けをする

ここまで本当に

大変な作業であることを

思い知っております。

今その渦中にある方いらしたら

疲れは後からどっと出てきます。

どうぞ一連の作業終えたあとは

お心お体しっかり休めてくださいね*

 

 

父の死後の後片付け

 

今後の母の介護問題など

 

山積みで皆

 

相当なストレスを感じていました。

 

 

わたしは当時、ようやくリピートして


くださるお客様が付きはじめ


そろそろ父から頂いていた

 

援助を打ち切っても


いい頃ではないかと

 

母からも促されていた時期でした。

 

なのであちこちに


出張の予定があったのです。

 

当時は皆が色々とストレスを

 

抱えていたせいもあり

 

それぞれの考え方があり

 

今なら皆にとって一番

 

いい選択を話し合うことも

 

できたかもしれませんが

 

当時はそのような

 

余裕もなく

 

仕事を優先しようとするわたしと


妹弟たちと意見が衝突しました。

 

 

わたしは自分の仕事で

 

食べていけるよう頑張るしかないと

 

思っていましたが

 

それについては他の家族からは

 

反対されていました。

 

そんなあやふやな


仕事なんかやめて


家に残り働かない夫なんか


捨てて離婚をして母の面倒を


みるよう言われました。


 

離婚に関しては


まぁ、考えるとして


仕事に関してはわたしの中で


やめるという


選択肢はありませんでした。

 

その決断のせいで

 

妹弟たちそして母とは

 

5年ほど離別することになります。

 

(今現在は関係修復できております)

 

 今ならもっと歩み寄れる条件を


提案し、家族の要望に応える方法を


探せたかもしれませんが


その当時はそうするしかないと


思っていました。


そうは言っても家族と離れても


仕事をするという決断は


わたしにとっては辛いものでした。

 

大きなストレスが


引き金になり


胃腸炎をきっかけに


体が弱り


突発難聴を患い、腎盂炎、気管支炎


円形脱毛症


これらの病が一気に襲いかかり

 

父の援助が無くなり

 

経済的な問題を抱えていたわたしは


さらに追い詰められました。

 

 

・・・・さて最終回詐欺ですみません。

 

次回こそ

 

独立した話にたどり着きたいと思います。

 

 

なぜこの話を書いたかというと

 

あの時、父が亡くなり


家族と離別しなければ

 

今のわたしはなかったからです。

 

 

すべてが後付けに


なるのかもしれませんが

 

わたしにとって当時、家族は

 

唯一甘えられる場所でした。

 


父と母にも結局なんだかんだ

 

一番甘えてきたのがわたしです。

 

 

なので家族に頼らず

 

精神的にも経済的にも独立をし

 

親をサポートできる自分になることを

 

目的に今まで頑張って


来れたのではないかと思うのです。

 

 

というわけで

 

この話、もう少し


お付き合いくださいね!

image

*これは告別式前に自宅にて父の棺の前で

スタッフの方に撮っていただいた写真*

 

 

それでは皆様

 

素敵な午後をお過ごしください。