皆様こんにちは!

 

さてこちら読者さまからのリクエストで

 

始めた(ここまでやれとは言われてない)

 

どうでもいい一人語りシリーズ。

いよいよ最後の話のつもりで書き始めたら

 

また長くなったので一区切りさせます。

 

おそらく次が最終回です!!

 

やっと終わる!と思ってらした方

 

ごめんなさい!まだあと少し続きます💦

 

 

 

さてここまでの時系列ですが

 

*書いてませんが

のちの話とつながるように

2004年佐藤富雄先生の口ぐせ理論に出会う

2005年6月から口ぐせ理論を学び

2006年7月に弟子認定講座を修了*

 

 

2005年 一回目の結婚を事実上解消

(書類上の離婚成立は2年後)

 

2005年 6月官能雑誌でライター活動開始

     8月 短編を新潮社に寄稿(二次審査で落選)

     9月 長編を自費出版系出版社に寄稿

        (受賞を理由に自費出版のカモとなる契約)

     

2006年 3月共同出版と言う名の元の自費出版

      4月チャットレディーデビュー(20日後撃沈)

      6月中旬チャット占い師デビュー

      7月実家神社で修業スタート

      

 

ということで

 

これは2006年の8月からのお話です!!

 

実は亡き父からは

 

占いをやめなさいと言われていたのですが

 

その頃2か月目にして

 

わたし売り上げナンバー1になっていたのです!

 

当時、生活費がかかってたのもあり

 

リピーター様がたくさんついてくださって

 

鬼のように待機してましたからね。

 

 

 

わたしとしても

 

いくら父が援助してくれるとはいえ

 

急に仕事をやめるのもどうかと思ったし

 

 

なにせ、あの詐欺師のような父ですからね。

 

 

いつまたお金が無いから援助やめる!

 

むしろ金払え!とか因縁つけられそうで

 

まったく信用できなかったんですよ💦

 

 

 

ただ貰えるもんは貰っておこう

 

と、すぐに援助開始していただき

 

そこに占いで得たお給料と併せると

 

そこそこお金もあったので

 

ついでに引っ越ししようと思いまして。

 

 

 

そして大好きだったけど

 

最後ちょっとホラーだった

 

高良山の真下のアパートから

 

 

高良山を眺める程度の距離

 

車だと3分かかるかかからないかの

 

距離のマンションに引っ越しました。

 

 

高速道路の降り口が

 

目の前にありましたから

 

車で実家に帰るのにはとても

 

便利ですし

 

家のとなりが大型電気店で

 

徒歩2分圏内に

 

明治屋というスーパーや

 

可愛い家具屋さんがあり

 

少し足を伸ばせば

 

車で5分程度で

 

大型ショッピングモールや

 

ゲームセンター映画館などもあって

 

とっても住みやすかった印象があります。

 

 

 

霊障も落ち着いたので

 

修行も週3回から

 

週1回でOKとなりました。

 

ところがだんだん

 

占いの会社で働くことに対し

 

疑問が湧き始めたのです。

 

 

そりゃ運営側は利益が優先。

 

これ当たり前のことなのですが

 

ただ、この会社

 

当時はチャットレディーチャンネルとか

 

風俗店とかが運営元でして。

 

 

チャットレディーチャンネルの

 

HPに占いのほうのリンクも

 

貼ってあったせいだと思うのですが

 

結構な割合で

 

エロ電がかかってきてたのです。

 

最初、エロ電の相手にも

 

親切に「お間違えですよ?」

 

とか言ってたんですけど

 

どうやらチャットレディーだけでなく

 

女性占い師までそういう対象にしようと

 

してきた貪欲な(変態な)お客が

 

わざわざ電話してきてたんですね。

 

 

当然、ブロックしてくれるかと思いきや

 

運営側は最後まで相手しろと言ってきます。

 

「は????」

 

と思ってましたけど

 

わたしこういうところで働くの

 

初めてだったので

 

こういうもんなのかな?と

 

我慢してました。

 

 

またエロ電までいきませんが

 

男性客が女性占い師をナンパ目的で

 

毎日電話しにきてこれはこれで

 

断るのが本当に大変で

 

運営側に「どうにかなりませんか?」と

 

伝えても

 

「黙って話を聞いてたらいいんですよ!」

 

と怒鳴られる始末。

 

 

いくら利益のためとはいえ

 

どうなの????と思いましてね。

 

*ちなみにこの会社

当時とは母体の運営が変わって

今はまっとうな会社になってます。

 

 

わたしが今電話占い運営する側になって

 

エロ電NG、ナンパNG

 

あと細かいところで諸々NGコードを

 

設けているのは

 

そういう経験からです。

 

 

先生方には

 

鑑定に集中してほしいのでね♡

 

 

まぁ、そういうことが重なり

 

結局この会社は実働8か月で

 

退職させていただきました。

 

と、辞めたのはいいけど

 

これからどうしたものか・・・・

 

と身の振り方を考えていました。

 

 

2007年3月

 

父からの資金援助は

 

奇跡のように続いていました!!

 

週1の修行も続けておりました。

 

修行止めたらお金もやらんとか

 

言いそうでしたし。

 

 

今思うとこれも父の策略だったかも

 

しれませんが

 

お金がもらえなくなる危機感だけで

 

わたしは修行をしておりました。>サイテー

 

 

さてその頃の修行メニューは

 

少し変わってきまして

 

お掃除、歩き行(120周から80周へ)

 

ご神殿での祝詞修行、プラス

 

父の霊視鑑定を申し込まれた

 

お客様の

 

フォローもするようになりました。

 

 

フォローというか

 

当時父はこれを

 

「お接待」と呼んでいました。

 

「お前がお接待せぇ」

 

というのは待合室で

 

ご相談者さまのフォローを

 

しなさいという意味だったんですね。

 

 

 

特にご新規さまが来られた場合

 

父からすると

 

長時間の鑑定はしんどいという事で

 

父の鑑定に入る前と後に

 

プチセッションのようなことを

 

させていただくわけです。

 

 

鑑定前は父の言葉を聞くときの注意点

 

どんな質問がNGでどんな質問ならOKなどを

 

ご相談者さまに事前説明し

 

父が疲れないよう配慮。

 

 

 

アフターは父の鑑定内容で

 

わかりにくいことはなかったか尋ね

 

わからないことがあればフォロー。

 

 

実はこの「お接待」は最初の頃

 

父と神社の母体を作っていたときに

 

自然と行っていたことでした。

 

 

そのころは

 

まだ父も元気だったので鑑定ではなく

 

さまざまな行事のビフォア、アフター

 

のフォローでしたけどね。

 

 

この「お接待」という業が

 

カウンセリング力を身に着けるのに

 

大いに役に立ったのです。

 

 

 

というのも父の鑑定スタイルは

 

神様が憑依した状態で

 

霊文字を書きます。

 

*この文字は一般的に解読不能です。

 

その霊文字を読み取りながら

 

鑑定結果を伝えるスタイルをとっていたので

 

カウンセリングではなく

 

相談者の気持ちなどは

 

考えず単純に

 

霊視結果だけを

 

伝えていくようなスタイルでした。

 

 

 

お客様の中には

 

父の鑑定内容が厳しすぎて

 

泣きじゃくって鑑定室を

 

出てくる人もいました。

 

 

わたしはそういうご相談者さまに

 

熱いお茶を出し

 

ご相談者さまがなぜ

 

そのような気持ちになってしまったか

 

聞き出します。

 

 

たいていの場合

 

父が霊文字で読み取った

 

神言を勝手に

 

「不安」な言葉に

 

捉えてるようだとわかります。

 

 

そういう方には

 

「そういうふうに

 

受け取られたのですね。

 

ただこれはそういう意図ではないと感じますよ

 

父に確認してまいりますね」

 

と言って確認したこともあれば

 

父がぐったりしていて

 

(あんなスタイルで

 

霊視してたらそりゃ疲れると思います)

 

聞けないこともありました。

 

 

でもわたしの仕事は

 

安心して、また神様のエネルギーを

 

受け取りにきていただくことだったので

 

その人が受け入れてくれそうな

 

言い方で

 

「こういうことだったようですよ」

 

とフォローさせていただくのです。

 

 

そうしてようやく

 

良かった、ホッとした。

 

(父に)みていただけてよかった。

 

と笑顔で帰られるのです。

 

 

それがのちの自分が霊能者として

 

活動するときに

 

役に立つスキルだとは

 

まったく思っていませんでしたが

 

 

お接待も修行のうちと言われていたので

 

ただ言われるままにやっていただけでした。

 

 

ところでわたしには

 

父のような凄い能力

 

神秘的な力はありません。

 

 

 

なので父のようには出来ないし

 

父とは違うスタイルの鑑定スタイルを

 

確立せざるを得ませんでした。

 

 

そしてこの時ちょうど

 

オーラの泉が大ブームの頃。

 

江●さんが

 

世にスピリチュアルカウンセラーという

 

肩書を広めていた真っ最中でした。

 

 

わたしは無意識のうちに

 

「お接待」でカウンセリング力を

 

身に着けていたのですが

 

そうとは知らず

 

「霊能者でなくて

 

スピリチュアルカウンセラーの

 

ほうが受け入れやすいのかな。

 

だったらカウンセリングというものを

 

学んだ方がいいのかもしれない」

 

と、いくつかの講座でカウンセリングを

 

学びました。ただ思ってたのとは違いましたけど

 

勉強にはなりましたが

 

わたしの鑑定スタイルに取り入れるには

 

無理がありました。

 

 

そこでふと数年前まで

 

佐藤富雄先生のところで

 

学んでいたアファメーション

 

言葉の力の凄さを思い出したのです。

 

 

何かパワーのある言葉で

 

ご相談者さまの問題が解決する

 

アファメーションを作成させていただいて

 

鑑定の最後に差し上げるスタイルにしては

 

どうだろうと思いつきました。

 

 

しかしそれを具体的には

 

どんな感じで売り出そうかと

 

考えていた時に

 

偶然、福岡の住吉神社内にある

 

恵比寿神社を

 

お詣りさせてもらったのです。

 

 

 

そのときに「コトノハ」という

 

言葉がふと浮かび、

 

実家に寄って父に

 

「住吉の恵比寿さんお詣りしてたら

 

コトノハって感じたんだけど

 

なんか意味ある?」

 

と確認したのです。

 

 

 

そしたら父は

 

「それ事代主さんじゃが。

 

事代主さんがコトノハに力を

 

与える手伝いをしてやると

 

言ってるからそうしなさい」

 

と言うではありませんか。

 

恵比寿さま=事代主命であることを

 

すっかり忘れていたわたしでしたが

 

そのようなヒントをくださったことに

 

感謝の気持ちでいっぱいでした。

 

 

 

そしてわたしの鑑定スタイルは

 

お客様のお悩みをヒヤリングしたあと

 

解決策をお伝えし、最後に

 

問題を解決に導くコトノハを

 

お渡しする形

 

「コトノハリーディングセラピー」

 

と名付けて、これを軸に

 

霊能者活動をすることにしました。

 

 

せっかくアイデアが

 

降りてきたのですから

 

とにかく顔を売っていくしかない!

 

と思ったので

 

 

当時、全国で行われていた

 

スピリチュアルコンベンション

 

=スピコンというスピリチュアルイベントを

 

全国行脚することにしました。

 

 

安物でしたがお気に入りの

 

ゴールドのキャリーをごろごろと

 

引っ張りながら

 

北は仙台、南は宮崎まで

 

あちらこちらのスピコンに

 

ブース料金を払って出店

 

させてもらいました。

 

 

そこでいろんな手法で霊的アクションを

 

取っている人たちを知り

 

波動について詳しい先生と

 

知り合って勉強会に参加したり

 

ヒーリングを

 

学ばせていただいたりするように

 

なりました。

 

 

霊能者として全国行脚するうちに

 

mixiでつながっていた友人たちも

 

応援してくれて

 

東京で鑑定会やワークショップを

 

開催してもらったり(ありがたいことです)

 

地域地域でリピートで

 

電話鑑定に申し込んでくださったり

 

福岡まで鑑定に来てくれる方が

 

ぼちぼち増え始めました。

 

 

ひょんなことから沖縄にもご縁ができ

 

全国各地から少しずつですが

 

お声がかかるようになっていきました。

 

 

 

また同時に全国からわたしの

 

「コトノハリーディングセラピー」を

 

ご依頼くださる方も増えてきて

 

久留米より

 

もう少し便利な福岡市内に

 

引っ越しをしたいと思っていたところ

 

急に引っ越しの話が持ち上がり

 

ばたばたと福岡市内の

 

海が見える家に引っ越しました。

 

 

この頃、まだ値段設定の重要性が

 

よくわかってなくて>おい💦

 

 

確か30分で5000円

 

60分は8000円でやってました。

 

 

新人にしては強気の

 

値段設定だと思ってましたが

 

働かないオトナ=元夫抱えて

 

これじゃリピーターもっと

 

増やさないと食べて行けません。

 

 

なので父からの仕送りが

 

ないととてもじゃないけど

 

食べて行けませんでした。

 

 

さらっと書きましたが

 

引っ越してきたばかりの

 

福岡市内のマンション

 

(今のマンションのすぐ近くです)

 

これがわたしの中では

 

かなりお高めのお値段でした。

 

引っ越しを決意できたのは

 

もともとここ妹夫婦が住んでいて

 

急に転勤が決まり

 

この物件のオーナーさんにお話したら

 

敷金は半分でいいので

 

そのまま審査なく

 

引っ越してきていいという許可を

 

いただけたからです。

 

 

お家賃は高いけど

 

当時わたしの名前で家を

 

借りることなんてまだまだ

 

収入がなかったので無理でしたから

 

このお話は本当にありがたかったです。

 

海もみえるし、裏は西公園の

 

桜がみえるという最高の物件でした。

 

 

問題のお家賃ですが

 

当時のわたしが働いて得た

 

純利益すべて投じて

 

やっと払えるぐらい。

 

 

あと諸々は父に頼らないと

 

生活できる状態ではありませんでしたが

 

この頃は営業活動に

 

あちこち全国を回っていて

 

家にいる時間は少なかったと思います。

image

*これは2008年2月に東京にて。有志の方に鑑定会を

開いていただいときの写真です。*

 

 

実はその頃、2回目の結婚をしてまして。

 

 

いつも書いてますがこれね

 

わたしの動機がひどかったので

 

周囲の友人たち

 

皆、大反対でして💦

 

*ちなみに3回目は

更にあんぽんたんな理由で

結婚しようとしたので大反対されました*

 

動機はですね

 

2番目の旦那にお金を貸してたんですよ。

 

でも一向に返しそうにない。

 

で埒が明かないので

 

とりあえず監視下に置いて

 

強制労働させて回収しようと。

 

この話をしたら、なんでその発想?

 

と言われるのですが

 

当時はそれが確実に

 

お金を返してもらえる方法だと

 

思ってました。

 

なので結婚??

 

といえるのかというと???>おいおい

 

愛情が無い証拠に

 

家で一緒にいるのが苦痛で

 

出張ばっかりしてたのを覚えています・・・💦

 

 

本当わたし当時は

 

どこか人として

 

何かが欠落していたようです。

 

 

 

当時、父母はまさかそんな理由で

 

わたしが再婚したとは

 

思ってもなかったと思います。

 

「もういまさら反対する

 

年齢(当時わたくし38才)でもないからな」

 

と普通に再婚を受け入れてくれました。

 

 

しかし強制労働を

 

約束していたはずの

 

この男が一向に働かないので

 

仕送りも続けてもらっていました。

 

 

アラフォーにして

 

まさかあの父が

 

1年半以上にわたり忍耐強く

 

文句も言わず支援してくれて

 

そのおかげで生活が出来ていることは

 

とてもありがたかったです。

 

 

2008年5月頃まで

 

父はまだ元気にみえました。

 

 

その半年前の

 

2007年11月は

 

家族旅行が出来るほどでした。

 

実はわたしたち家族はいつもばらばらで

 

家族そろっての旅行をしたことがなかったので

 

母のたっての希望で石垣島に旅行に行きました。

 

image

ぼかしてますが念願がかなって母満面の笑みです♡

 

 

しかし、これは最後の家族旅行となり

 

やがて父に支援してもらっていた

 

この生活も

 

終わりがやってきます・・・・。

 

 

最終回にできるかな???

 

このシリーズ意外と楽しみに

 

してくださってる方がいらっしゃるようで

 

ご感想たくさんありがとうございます!

 

 

それでは皆様

 

素敵な午後をお過ごしくださいね。