皆様こんにちは。

 

ところでわたしが

 

身を置いているスピリチュアル業界は

 

ある意味、承認欲求の塊のような人間が

 

とても多いのではとおもいます。

 

 

もちろん、わたしも含めてです。

 

ただ、この業界はそういうもの

 

欲だとか、見返りを求める気持ちなどを

 

「波動が低い」と貶める傾向があります。

 

 

なのでほとんどの教祖さまは

 

承認欲求も、見返りもいらないような顔をして

 

生きています。

 

 

もしくはわたしの欲は綺麗などと

 

意味不のことを言ってのける人もいます。

 

 

この業界は

 

自分以外の何者かになりたかった人たちの

 

巣窟であるといっても過言ではない気がします。

 

 

自分は自分にしかなれないのに

 

●次元に行けるだの

 

レム●アのなんたらかんたらだったり

 

神との橋渡しだのなんだのと

 

目に見えないエネルギーを利用して

 

やりたい放題です。

 

 

わたしも霊能者と名乗る限り

 

ちゃんとその役目を果たしたいと考えてはいますが

 

この世界、こうもおかしな人ばかりだと

 

同じ穴のムジナとみられても仕方がないわけで

 

非常に悩ましいところです。

 

 

ここはやはり原理原則に基づいて

 

この現実は全て自分が創り出したものとして

 

ここからお話をしたいと思います。

 

 

わたしの現実にインチキで嘘つき(としか思えない)

 

スピリチュアリストとして恥ずべきな人たちが

 

目につくということは

 

 

わたしという人間の中にも

 

フェイク(偽物)の部分があって

 

それを恥じている部分があるのでしょう。

 

 

今では割り切っていますが

 

つい最近まで

 

わたしは本名で活動していない

 

ということに少し罪悪感を感じていました。

 

 

なんだかニセモノの自分

 

自分以外の何者かに

 

なりたがってるみたいで

 

恥ずかしく抵抗があったのです。

 

 

中州で水商売をしていたときも

 

源氏名がありましたが

 

やはり同じ感覚になり

 

最後までお勤めしていたお店では

 

本名で働かせてもらうようにしました。

 

 

本名にこだわりがあったのではなくて

 

何者かになりたがって

 

嘘をついてる気がして

 

イヤで仕方なかったのです。

 

 

それなのに占い師の仕事は

 

なぜ本名で活動しなかったのか。

 

 

実はわたしがこの仕事を始めたとき

 

まだ父が存命だったのです。

 

 

父に霊能者として活動することを

 

宣言したときに、わたしは父の力を

 

借りたくないという

 

変なこだわりがあったんですね。

 

 

お金は援助してもらってましたから

 

今思えばちゃんちゃら

 

おかしいこだわりなのですが

 

最初、父の提案で

 

父の神社で修行をしながら

 

神社で鑑定をするという流れに

 

なりそうだったのです。

 

 

しかしそうなるとまた父の威を借りて

 

自分で何もできなくなると思ったのですね。

 

もっというと

 

これ以上、父に支配されるのは

 

イヤだと思ったので

 

敢えて父とは別の道を歩くと宣言し

 

活動することにしたのです。

 

 

父が存命ですから当然

 

本名の姓は名乗れません。

 

(この活動をスタートしたときは

一回目の離婚直後でしたので父が名乗る

旧姓に戻っていたのでした)

 

 

 

玲巳という名前も

 

自分で思い入れを込めてつけたわけでなく

 

当時所属していた

 

電話占い会社に

 

ちょっと前まで在籍されていたという

 

「麗美先生」という方のお名前を頂けば?と

 

会社に提案されて「ああ、じゃあ、それで」

 

と軽くOKをしました。

 

前の先生との区別、混乱を防ぐために

 

麗美を玲巳と漢字だけ変えてもらって

 

玲巳を名乗り始めました。

 

 

そしてその頂いた名前に、

 

姓名判断を勉強していた妹が

 

苗字をつけたほうが画数が良いからと言って

 

考えてくれたのが幸川玲巳という名前です。

 

 

ビジネスネームを使う人は

 

たくさんいますし、ビジネスネームで

 

活動しているわたしの尊敬する方も

 

たくさんいらっしゃるのですが

 

本当につい最近まで

 

ビジネスネームを使うのは嘘つきだ

 

ビジネスネームを名乗る行為は

 

自分以外の誰かになりたい人の象徴である

 

という価値観がなんとなく

 

抜け切れずにいたのです。

 

 

だからでしょうか。

 

わたしは名前を呼び間違えられても

 

どっちでもいいよ。と思うことが多いのです。

 

さすがにラジオやTVなどで間違えられるのは

 

たくさんの方に誤解を与えるのでNGですが

 

普段から

 

「幸川玲巳(ゆきかわ れいみ)」

 

という名前を

 

「幸川(さちかわ)さん」

 

「寺川(てらかわ)さん」

 

「らいみさん」

 

「玲美さん、玲実さん」

 

などいろいろ間違われます(笑

 

しかし、まったくもって気になりません。

 

 

これはおおらかさからくるものではなく

 

「間違ってもどっちでもいいよ、どうせフェイクの

 

名前なんだし」

 

みたいな受け取り方をしていたからで

 

名前をぞんざいに扱ってたのかもしれませんね。

 

 

ビジネスネームを使う事に

 

ここまで罪悪感があったとは

 

先ほども書きましたが

 

本当につい最近、気が付きました。

 

 

わたしがそこに気づいたところで

 

フェイクな活動をしている人たちは

 

消えませんが

 

自分が自分のことを

 

信じられないときに

 

こういうフェイクなものが目に付くのは確かです。

 

 

わたしが持つ必要のない罪悪感を

 

持っていたから

 

罪悪感を持つ必要のない人が

 

地球にごめんなさいと誤りの祈りを捧げる

 

バカげた現象をみせつけられたのでしょう。

 

 

何度も言いますが

 

わたしが自分の中の

 

持つ必要のない罪悪感に

 

気が付いたからと言って

 

こういった輩が

 

現実の中で

 

消えてしまうわけではありません。

 

 

 

しかし、少なくとも

 

変な行動をする人たちをみて

 

なにかこう胸を締め付けられるような

 

いたたまれなさは消えました。

 

 

なんというか人の行動なのに

 

自分の取ってしまった悪事のような

 

恥ずかしくていたたまれないイヤな感じは

 

なくなりました。

 

 

しかし、持つ必要のない罪悪感

 

これはわたしの中に

 

まだまだたくさんありそうです。

 

 

 

これからもそこに気づいたら

 

ブログネタにするかもしれません。

 

 

 

ちなみに今現在はようやく

 

「幸川玲巳」と言う名前が

 

フェイクで恥ずかしいという

 

気持ちは消えておりますし

 

それなりの愛着も感じております。

 

お優しい皆さま、どうぞご安心くださいませ。

 

 

それではどなたさまも

 

素敵な日曜日の午後をお過ごしくださいね。