昨年の夏8月、モンゴルを訪ねたが、南ゴビが主だったので、2024年は、カラコルムとナーダム祭を目的に訪ねることにした。

 

空港を出ると、昨年と同じガイドのドゥルー(ムンフドゥル)さんが、笑顔で迎えてくれた。ちょっとふっくらしていたので、私は似ているなと思ったが、向こうから気がついてくれた。うれしかった。

 

 


カラコルムは、モンゴル帝国の都だった。チンギス・ハーンの息子オゴタイ・ハーンによって建設された。壮麗な宮殿や寺院群、イスラム教のモスク、キリスト教の教会が軒を連ねていたという。東西交易の中心地であり、国際都市でもあつた。しかし、5代クビライ・ハーン(チンギス・ハーンの孫)時に、大都(現在の北京)に遷都され、今は、ハラホリンという村になっている。

 

カラコルムは、元が滅亡(1368年)した後も、17世紀までは、たくさんの寺院群が建てられたという。モンゴル革命(1921年)後、ソ連の影響で、仏教は弾圧され、寺院は破壊され、僧侶は、粛清された。粛清者の数が決まっていて、僧侶の数が足りないと近くの遊牧民が犠牲になったという。

 

現在は、108個の白いストーパ(卒塔婆)と外壁に囲まれた(400m×400m)正方形の境内に数棟の寺院と付属の建物が、残っている。若い僧侶も修行していた。世界遺産登録されていて、観光客が多い。

 


ウランバートルからカラコルムまで、約360km、バスで向かう。道路は片道1車線。ナーダム祭前で渋滞気味。次の日、私たちはカラコルムからウランバートルに向かったが、反対車線は大渋滞。1車線の道路を2車線、3車線にして追い抜こうとして、ぶつかったりしていた。事故が何カ所で起きていた。バスが土手にななめにずり落ちていた。昨日でなくてよかった。これでは、カラコルムに、なかなか着くことができなかっただろう。

 

ウランバートルは、いつも渋滞気味。市内交通は、トロリーバスか車しかない。車のナンバープレートで市内に入る車を規制すると、お金がある人は、違う車を買って対抗するとのこと。地下鉄工事を韓国の企業が、入札したらしいが、岩盤が硬いらしく、完成のメドは立っていない。


今回、一緒に行った友人は、私立高校で長年教師をしていて、退職後も、講師をしている。学期末の忙しい時期に、旅行は大丈夫かなと心配していたが、学校側としては、無理に講師を頼んでいるという事情から、快く承諾してくれたという。それに、学校の相撲部には、モンゴルから留学してきたモンゴル人が、常時、6,7人いて、相撲部の顧問の家に寄宿し、学校に通っているとのこと。毎年、校長がモンゴルに行き、2~3人スカウトしてくるらしい。日体大の相撲部に進むとのこと。現在、十両の阿武剋(おおのかつ)も、この高校の卒業生。先生方は、モンゴルに親近感があるとのこと。


7月11日はナーダム祭、ナーダム祭は、モンゴル各地で行われているが、ウランバートルのメイン会場で、オープニングセレモニーと相撲を見学することになった。今年は、ブータンの国王夫妻も参列した。

 

 

私たちの席は、ちょうど舞台の裏手の席。ドローンによってスクリーンに映しだされる顔を、見るしかない。大統領のあいさつ、騎馬兵のパレード、歌、踊り、恐竜(もちろん、張りぼてーでも動いていた)の登場などなど。2時間近くの競演。モンゴルの人気のある歌手が出たりして、会場は、盛り上がっていた。

 

 

モンゴル相撲も40人くらいが、左右に並び、次々と組んで、相手を倒していく(512人が参加したらしい)。最後に小さな人と太った大きな人が組んだ。予想に反して、小さな人が太った人を倒した。会場から大きな拍手が起こった。

 


 

私たちは、バスに戻り、バスの中でお昼のお弁当を食べ、競馬のゴール会場に向かった。ナーダム祭の競馬は、今年は191人の6~11才までの子どもたち(男、女)が25km先のスタート地点を午後1時スタート、午後5時頃ゴールに到着予定。馬は2~6歳馬。ゴール会場には、階段状の桟敷がいくつもできていた。

 

 

5時過ぎに先頭の馬、5頭が、みんなの歓声の中、走ってきた。あぶみもくつわもなく、裸馬に乗っているのだ。5頭のうち1頭には、子どもが乗っていなかった。どこかで振り落とされたらしい。けがが無ければいいがと、ちょっと心配になった。1~5位は、国が表彰するとのこと。大人の競馬は、昨日行われたとのこと。馬に振り落とされた人が、違う方向に走っている馬を追いかけて、馬に乗り、コースに戻り、1番でゴールしたそうだ。今年、1番の話題とのこと。

 


 

1987年、モンゴル人が初めて宇宙に飛んだ。ソ連の人と一緒に。民主化後も、ロシアとの関係は良好。鶏肉や石油は、ロシアから輸入。双子が生まれた場合、1人は、モンゴル風の名前、1人はロシア風の名前をつけるとのこと。私たちは、ウランバートル市内を一望するザイサン・トルゴイの丘に登る予定だった。しかし、9月にプーチンの、モンゴル訪問が予定されて、この丘の壁画が急に修復されることになり、急遽近くのホテルに変更になった。この壁画は、第2次大戦の時にモンゴルとソ連が協力して、ドイツ、日本といかに闘ったかを描いた壁画である(昨年の夏、ここに登った)。眺望はホテルと違ってすばらしい。360度、ウランバートルが見わたせる。
 

1939年のノモンハン事件(関東軍とソ連・モンゴル軍が戦う)によって、捕虜になった日本人約1200人が、オペラ劇場や現在は証券取引所などを建てたという。現在は、日本とモンゴルは、友好的だ。ザナバザル美術館の中では、愛媛県からきた表千家の人たちが、書、絵を展示して、お茶の接待をしていた。私もお茶の接待を受け、ひと息ついた。


モンゴルには、動物園がない。人口350万人に対して、家畜の数は、7000万頭
動物の数のほうが多い。遊牧民の子供たちは、普段は学校に寄宿して、勉強する。6月、7月、8月は夏休み。家に帰って家畜の世話をするとのこと。都会の子どもたちは、ゲームやテレビを見ていることが多いという。どこの国も同じかも。


ガイドのドゥルーさんの長男は、大学を卒業して、今はアメリカ映画のモンゴル語の吹き替えの仕事に就いているとのこと。小学生の次男は、中学生になった。子供の話題に、顔が和んだ。

 

2020年にロシアのバイカル湖の東側にあるブリヤー共和国を訪ねる予定でしたが、コロナのため直前になって中止に。その後、ロシアのウクライナ侵攻のため平和が訪れるまで、ロシアを訪問するのは無理。ブリヤート共和国は、ロシア連邦のなかでモンゴル人が多く住んでいるところです。そこで、コロナが収まった2023年の夏、モンゴルを訪ねることにしました。

 

モンゴルの首都、ウランバートルまで成田から5時間余りというのも魅力のひとつです。友人に「モンゴルに行く」と言ったら、「見るところあるの?草原しかないんじゃない」と言われました。

 

一行は18人(男2、女16、夫婦1組)―北海道が7人―添乗員が札幌支店長のため、千歳空港から添乗しますと電話攻勢があったようだ。


モンゴルといえば、チンギス・ハーンがすぐ思い浮かぶが、現在のモンゴルも国会議事堂前の広場には、大きなチンギス・ハーン像、両隣にフビライ・ハーン、オゴタイ・ハーンの像が鎮座している。ウランバートルの空港もチンギス・ハーン国際空港である。

 


 

現在のモンゴルは、1921年、ロシア革命の影響を受け、モンゴル人民共和国(実際には最後のハーンの死後1924年)として社会主義国として建国された。1980年代後半のソ連や東欧の政治体制の混乱の中、モンゴルも民主化の流れができ、新憲法を発布。1992年国号をモンゴル国と定めた。

 

日本とモンゴルの国交樹立は1972年。現在、在日モンゴル人は13000人。在モンゴル日本人は300人。

 

モンゴルの面積は、日本の約4倍。人口は、約350万人(2021年)。首都ウランバートルに4割以上が住んでいる。交通網が余り発達してないので車があふれ、渋滞がはなはだしい。8月末からは、車の番号によって都内に入れる車を規制するということで、今のうちに都内に入っておこうと、余計に渋滞していた。

 

タクシーは、ほとんど見かけない。道路脇で手を挙げていれば、普通の車が止まってくれるそうだ。タクシーを呼ぶと時間がかかるとのこと。運転手は、誰でも白タクシーの運転手になれるとの事。事件は起こらないのですかと聞いたら、「大丈夫よ」の答えだった。


ウランバートルの街を歩いていても余り外国に来ているなという感じがしない。日本人と変わらない体つき、顔も似ている。私達もモンゴロイドなのだとつくづく思う。

 


 

ガイドのドゥルーさんは、26歳のウランバートル大学生(男)と10歳の小学生(男)を持つお母さん、なぜこんなに離れているのかとツアーの人に聞いてみた。みんなからは、再婚したためとか、離婚したためとかいう答え。正解は、ウランバートル大学を出て、日本に4年間語学留学したためなのだ。奈良や千葉で日本語を学んだという。

 

日本語は、ペラペラ。納豆も食べるという。ちなみに私は、納豆は食べれない。なぜ、ガイドのドゥルーさんについて詳しいかというと、南ゴビ砂漠では、5台の4WDに分乗して、3日間走ったが、先頭車のガイドのドゥルーさんといつも一緒。プライベートな事も聞くことができた。先頭車といっても、ゴビ砂漠では道なき道なので、皆が勝手に走り、ビリになることもしばしば。


ドゥルーさんは、博物館、遺跡などを見学しても、ひとつひとつ丁寧に説明してくれる。おかげで、博物館の絵画や展示物の意味がよく理解できた。


モンゴル人の選挙権は18歳から。男には1年間の兵役がある。そのためか大学進学率は、男性より女性のほうが高い。女性の大学進学率90%。男は軍人になったりして、なんとかやるだろうという考えがあるようだ。国立大学は、私立大学より授業料がもちろん安い。結婚年齢は、男26才。女23才。子供は、3~4人。

 


 

モンゴルのスポーツで、1番の人気は、相撲。日本の相撲界もモンゴル抜きには、成り立たなくなっている。モンゴル相撲は、土俵がないこと。時間制限がないこと。頭、肘、膝、背中のいずれかが地面につけば負けだが、手のひらがついても負けにはならない。時間制限がないため決着がつくまでが長く、2時間、3時間になるという。毎年の国民的な祭典「ナーダム」では、3時間も大統領が見ていたため、40分に制限されるようになった。日馬富士の日本語学校が、ウランバートルにある。日本語も人気があるとのこと。
 

南ゴビ砂漠では、さえぎるものが何もなく、地球が丸いということを実感できた。星空もくっきりと見え、北斗七星が、手を伸ばせば届きそうな近くにあった。しかし、天気は急変し、真夜中には、暴風雨になった。過酷な自然。トイレがついてないコテージで、夜中に目が覚め、トイレにいこうとしたら真っ暗。停電。方向感覚がなくなり、自分の部屋がわからなくなってしまった。危うく、迷子になりそうになった。次に泊まったゲル(2泊)には、シャワーとトイレがついていた。1年前に日本人がオーナーになったとのこと。
 

山羊、羊、牛の放牧はバイクでやっていた。ラクダは利口で、自分の所に帰るので放し飼い。南ゴビ砂漠は、乾燥しているので、ラクダの放牧が多い。


モンゴルの観光客で多いのは、韓国の若者。韓国の有名な女優が、モンゴルを舞台にしたドラマがあり、そのロケ地めぐりが、韓国では人気があるとのこと。日本のテレビでも「VIVANT」というドラマが、モンゴルに2ヶ月間も滞在してロケをやったそうだ。モンゴルの広大な自然。日本の若者に人気が出るかも。
 

 

テレルジは、ウランバートルから東北東に約70キロ、国立公園になっているリゾート地。景観はスイスに似ているが、スイスと違って、もっとゆったりとしていて山があまり高くなく、迫っていない。なだらかな山々と緑の丘陵地に白いゲルが点在している。丘陵地には、エーデルワイス、ワレモコウ、チドリソウ、リンドウなどの高山植物が咲き誇っていた。ここのゲルに2泊した。ここのゲルは、シャワーとトイレがついていた。ガイドとドライバーが泊まったゲルは、共同だったそうだ。夜は、寒く、電気ストーブを焚いた。


モンゴルは、約100年前に恐竜の卵が見つかったことで有名。アメリカのアンドリュース隊が調査中に、隊員の1人が崖から落ちたことで発見された。卵をつぶさないように、恐竜は、まるく並べるようだ。日本の北海道大学もゴビ砂漠で、現在も恐竜の発掘調査をしている。私達も恐竜の卵の化石が発掘された崖を尋ねた。今は広漠たる茶色の大地だが、恐竜がいた頃は、緑豊かな土地だったかもと思うと、茶色の大地がちょっと違って見えてきた。


食事は、バラエティーに富んでいた。モンゴルでの最初のランチは、韓国料理。次の日のランチは、モンゴル風の餃子(ホーシュール)や蒸し焼きうどん(ツォイワン)。その他、和食(寿司や天ぷら)、しゃぶしゃぶ(牛肉、鶏肉、馬肉)、ナポリタンなど。夕食はバイキングもあったが、ラクダ肉のステーキ、羊の石焼き料理など。ゲルの家庭訪問では、モンゴル式の紅茶、ラクダの乳で作ったチーズで歓待してくれた。

 

7泊8日のモンゴルの旅、3回も朝3時起きがあり、ちょっと強行軍。楽しい旅ではあったが。

ブータンには、インドのダージリン、シッキムを経て、インドの国境の街―ジャイガオンーの検門をくぐり、陸路で入る。

インド人やブータン人は、この門を自由に出入りできる。180kmの山道―舗装なしー砂利道―を谷を渡り、山を越え、山を越え、谷を渡り、約8hかけて、やっとブータンの首都ティプーに着いた。

 

ブータンは、インドの北、ヒマラヤ山脈にある仏教国で九州ほどの大きさ。人口は約70万人。GNH(Gross National Happiness―国民総幸福)で、注目されている国です。

 

ブータンの人々の家は、山の中腹とか、頂上近くに、ポツン、ポツンと建っている。棚田が美しい。ブータンの道にトンネルはなし。トンネルを作ると、家が取り残されてしまうので、道は山に沿って続く。

 

お墓もなし。輪廻の思想で、遺体は焼いて、川に流す。川の魚は食べないが、養殖の魚は食べてよし。生き物は殺さない。でも、誰かが殺した動物の肉は食べてよし。

 

 

屋根の上にはためいている旗(カタという)は、1年に1回(お正月)、とりかえる。ブータンの東の町に行くのに、3日かかるので、「アメリカ人が「ブータンは、アメリカより広い」といったそうだ。

 

お札や切手は、シンガポールで印刷している。ブータン人の平均月収は約2~3万円。外国人観光客は、2007年は約2万9000人、2008年は3万人を予想している。

 


 

ブータンは、親日的だ。ブータンの農業改革に、長年尽くし「ブータンの農業の父」といわれる西岡京治氏の貢献が大きい。外国人として初めて国葬(1992年)が執り行われ、ブータンの多くの人々が、参列した。ダジョ―(生前、前国王から名誉ある称号が贈られた)西岡の碑も建てられている。

 


 

インド側に帰る道で、子ども達が乗ったマイクロバスと乗用車が、接触事故を起こし、現状維持で警官がくるまで、動けない。ここで、2時間近く立ち往生。

 

ブータンでは、バス代は、12才以下はタダ。13~18才は半額。やっと、ブータンの国境プンツォリンに着いたが、インド側の入国事務所がストのため、しばらく待つ。その時、私がポラロイドで、子どもの写真を撮ってあげると、私も、私もと寄ってきた。並んで、並んでと列を作る人も出て、大変な人だかり。フイルムがすぐなくなってしまった。

 


 

ブータンの国境で、ブータン側のガイド2人(男性)と別れた。2人とも、日本語が上手。それもそのはず、長野県でホームステイをして日本語を学んだそうだ。日本語学校まで、20kmの道を自転車で通ったという。
ブータンの東の町にも、行ってみたいと思う。3日はかかるかも?