2016年の1月、エチオピアに11日間、行ってきました。
成田空港から香港まで客席はガラガラで、2015年に成田空港に就航したエチオピア航空は、大丈夫かなと私が心配することではないが、心配しました。
香港から中国人がたくさん乗ってきて、満席になりました。帰りも香港までは満席状態。香港からはガラガラになりました。
エチオピア航空は、中国人でもっていたのです。香港からエチオピアの首都アジスアベベまでは、11時間余り、無事到着。エチオピアはビザが必要なので、旅行社に頼んでいたが、日本の大使館では取れず、空港でビザを取るのに2時間近くかかり、やっと入国できました。
エチオピアは、日本の面積の約3倍。人口は約1億人。赤道に近いが、平均標高は2400mなので、気温は1年中15~25度の間を少し動くだけで快適です。
また、海面下120mのダナキル砂漠があり、最高峰はシミエン国立公園内にあるラスダシャン山(4620m)で変化に富んでいる。民族も80余り存在し、多様性に富んでいる。
エチオピアと聞けば、1964年の東京オリンピックの金メダリスト、アベベ・ビキラ選手がすぐ浮かんでくる。その前の1960年のローマオリンピックでもマラソンで優勝しています。エチオピアが高地であるので、心肺機能が高まったのではないかと以後、陸上競技に、高地トレーニングが導入されるきっかけになったという。アベベ選手はオロモ人。
アジスアベベの博物館には、エチオピア東部で発見され、人類の祖先といわれている320万年前の猿人ルーシー(女性、二足歩行)の骨がガラスケースの中に横たわって展示されています。このルーシーは上野の国立科学博物館にも展示されています。骨だけの二足歩行の像、肉付けされ、右手の人差し指でかなたを指さしている像の2体(もちろん、この2体はレプリカ)。
エチオピアは、エチオピア正教というキリスト教の国。ラリベラのチィムカット祭は最も盛大だそうで、この祭りの見学を兼ねてツァーは組まれた。ラリベラはラリベラ王が、12世紀にイスラム教徒が支配していて、エルサレムに巡礼できないキリスト教徒のため、第二のエルサレムを作ろうとした街です。ヨルダン川や聖ゴルゴダ教会などエルサレムを模した地名があります。巨大な一枚岩をくりぬいた岩窟教会が11もあり、教会群は地下でつながっています。もちろん世界遺産に登録されています。
1月19日は、ティムカットのイヴ、各教会からタボット(モーゼの十戒が刻まれた石板を入れた箱)が持ち出され、会場まで運ばれます。私達が教会を見学した時は、そのタボットを外に出す儀式が、教会内で行われていました。教会内は、靴を脱いで中に入ります。そのため入り口の所にまとめておきますが、靴番がいて移動のたびについてきてくれました。
聖救世主教会、聖マリア教会、、聖十字架教会、聖処女教会をゆっくりとみて、私たちもタボットの行列に参加しました。約2kmの道を、色とりどりの傘をさして進んで行く司祭、信者(新しい白い服をきている)、観光客の行列。タボットを運んで進んでいきますが、司祭たちが歩く道は絨毯を敷いています。2枚の細長い絨毯を交互に敷いていくのでゆっくりです。一番後ろからついていった私たちもタボットに追いつきました。1時間以上かけてやっと広場に到着。広場の入り口付近は、ラッシュ並みの混雑状況でみんなと離れ離れになってしまいました。
翌日は、ティムカット祭、朝早く起きて会場へ(6:30会場)お祈り、宗教儀式、歌、踊りなど2時間以上続き、最後は洗礼式です。貯水池の水が勢いよくホースでまかれると、みんなはいっせいに水を浴びようと駆け寄ってきました。その後、タボットは、各教会に返されます。各所で人々は、祭りを楽しんで踊っていました。
この祭りでツアーの一人(女性)は、スマホをなくしました。一応警察署に届けたら、結婚はしているのかと聞かれたそうです。また、パスポートをなくした外国人も警察署にきていました。私も予備のカメラのバッテリー(2個)が入った袋がなくなりましたが、ホテルに忘れたのかよくわからないので、そのままにしました。
このチィムカット祭は、同じ日にエチオピア各地の教会で行われています。
ゴンダールに向かう途中、ファラーシャ村という村に立ち寄りました。ここに以前ユダヤ人が、陶器の食器を作りながら住んでいました。村の真ん中にユダヤ教の教会シナゴーグが残っています。
今はエチオピア正教徒の人たちが、観光客を当てにしてみやげ物などを売って暮らしています。
エチオピア各地に住んでいたユダヤ教徒(ファラーシャ)をイスラエル政府がダン族というイスラエルの民の末裔として公認したのは、1975年であった。イスラエルに行きたいというファラーシャの人々をイスラエルは、1985年の「モーゼ作戦」、1991年の「ソロモン作戦」などとよんで空輸した。イスラエルに移住したファラーシャは、およそ8万人と推定されている。この人々が「黒いユダヤ人」とイスラエルではよばれている。ヘブライ語が話せない人が多いため、失業者が多いという。
19世紀、アフリカ大陸は、ヨーロッパ列強諸国によって分割された。独立を保ったのはリベリアとエチオピア。1896年にエリトリアから侵略してきたイタリア軍をアドワの戦いで撃破し、独立を保つ。1935年ムッソリーニは「アドワの報復」としてエチオピア侵攻を正当化し、首都アジスアベベを占領した。シミエン国立公園に行く時、この道はイタリアが作ったと説明があった。イタリア軍が侵攻した道であった。第2次大戦中の1941年、エチオピアは独立を回復する。イタリアが連合国に降伏するのは、1943年である。
モカコーヒーは、エチオピアが原産地とされる。エチオピアでは、生産量の半分が国内で消費されている。みんなコーヒーが大好きなのだ。コーヒーを飲むとき、コーヒー豆を炒るところから始まるので時間がかかる。コーヒーセレモニーと言われ、伝統文化になっている。エチオピアは、広く、変化に富んでいる。活火山エルタ・アレも見てみたいなと思う。