閑散期なので、連日定時上がり。
18時でもまだ昼間のように明るいです。
昼間の暑さは和らいで時折涼しい風が吹く、気持ちの良い夏の夕方。
仕事終わり、一目散に帰宅ラッシュピークの電車に駆け込む気力は削がれて、なんとなくアテもなくぶらぶらと歩きたくなります。
7月の終わりの芝公園。
先週末、若い頃大変お世話になった方が病気で亡くなったことを知りました。亡くなる数年前から闘病生活をされていたようです。
随分年上の方でしたが、生き様が大変格好良くて、とても温かく理知的で、心の優しい方でした。
20年以上お会いしていなかったのですが、時折風の噂に聞く限りでは、相変わらず若々しくお元気で、多方面でご活躍されていたようでした。
昨日、部屋の整理をしていると、偶然その方にいただいたメッセージカードや手紙の束がいくつか出てきました。
それらには温かい励ましの言葉が綴られていて、筆跡と一緒に当時の記憶がはっきり蘇ってきました。
この字を書いた人はもう居ない。
そう思うと、いいようもなく寂しくなります。
ここはいつだったかその方が、私の誕生日をお祝いしてくださった場所のひとつでした。
居なくなってしまった後にここを眺めると、全体の空気感というか、時代のようなものがガラッと変わって、私だけポツンとここにひとりで取り残されたような、全然違う感じに見えます。
私、今とても穏やかで幸せなんですが、
それを伝えることもないまま、私の知らないうちに、その方は静かに旅立たれました。
悼んで泣くとか悲しむとかっていう感情は不思議と全く出てきません。
会っていない時間が長すぎたのかもしれませんが、実際に一粒の涙すら出ず、奇妙に実感が薄くて他人事のようにも感じられるほど。
しかし、頂いたカードや手紙を見つけてから、何でなのか、何をするにも力が入らなくなりました。
これは喪失感なのでしょうか。
本当はとてもショックで混乱しているのか。
感覚はひどく醒めているのだけど、普段の私ではない。
ぼんやりしながら、宇多田ヒカルの桜流しを、繰り返し繰り返し聴いています。
当時を知る親友はもういないし、いまの私を取り巻く人々は、誰一人その方のことを知りません。
だからこそ、誰にもこの変化に絶対に勘づかれたくない。何も聞かず、詮索や心配とかせずに、ただただ、消化できるまでそっとしておいてほしい。
だけど、気を抜くとついぼんやりしてしまう。
傍目から見ると不自然極まりないので、何も考えていないかように振る舞い、常に気を張っているしかない。
身近な人や親しい人の死というものに、あまりにも慣れていなくて、切り替えが難しすぎる。
早く、いつもの自分に戻りたい。