実母である貴美子母とは、ライブ以来会っていない。
それ以前も、勝子母が病気になってからはほぼ会っていない。
二人いたからこそ、何とか保てていた私の「バランス」は、
勝子母の「死」によって大きく崩れてしまった。
私は実母に育てられていない。一緒に居た時間はあってもほぼ苦痛を強いられてきた。それでも、私が彼女を「捨てる」という事は出来なかった。できなかった。
勝子母が助からないとわかった時、何故?何故勝子母なの?何故貴美子さんじゃないの?と、本気で思った。許せない気持ちがまた戻ってきた。
そして勝子母が亡くなった後、私は貴美子母に会いに行くのをやめた。完全にやめてしまった。
施設のケアマネさんも事情をわかってくださっていた。その時は私はもう限界を超えていて、自分がキーパーソンでいることもやめたいと言った。
そんな中、6月のライブを迎える。
6月のライブ。
こういうことがなければ、会うことを拒み続けるだろうと思った私は、施設に案内を出した。貴美子さんはとても喜んで私に会いに来た。貴美子さんに少しでもわかって欲しくて、私は勝子母の「遺影」を客席の貴美子さんの席の隣に作った。
「勝子さん…」といって何度も遺影を抱きしめていた。
そして私とその遺影を繰り返し見つめて泣いていた。
その後も、私は結局会いに行く事を拒み続けた。
施設の皆さんはとても優しく、いつも郵送でいいので、という前置きとともに必要なものや書類を送ってください、とお手紙をくださった。いつか時間が解決するものなのかな…?これは解決しないのじゃないかな…と、ずっと思ってきた。
おととい。
施設から連絡が来る。
左腕に力が入らなくなった貴美子さん。震えも出ていて「脳梗塞の疑い」があるという。看護師さんが様子を見て下さっているが、このまま左足と顔面にマヒがではじめたら救急搬送します、とのことだった。
脳の病気は、怖い。私は貴美子さんの兄であり、勝子母の旦那である、私を育ててくれた叔父を最終的には癌で亡くしたけれど、最初は脳出血だった。勝子母も肺癌からくる脳腫瘍を一度は取ったけれど、最期、脳髄膜炎と脳腫瘍2つを併発して、勝子母は亡くなった。
貴美子母が、死ぬかもしれない…?
そうなってやっと、私は自分勝手な想いに気づく。
まだ「様子見」の段階だったことから、私は仕事が外せなかったので、万が一救急搬送されたら仕事を休んでそちらに行くので、連絡をください、と言った。
涙が出た。
何で、なんで会いに行ってやらなかったんだろう?
これで死なれてしまったら、私はどうしたらいいんだろう?
ごめん。おかあさん、ごめん、と。
…あっという間にね。
「その疑い!!!!」は解けてしまったんだけど!!!!
…やっぱりね、やっぱりそうなんだ…
このバイオハザードがあああ!!!!
→カルテに赤文字で「不死身」って書かれてた人です!
「ひさしぶり、げんきだったの?」
「あのいえでひとりでいるの?」
「さみしくないの?」
色々質問攻めにされた後、ふと静かになる母。
「ごめんね、暫くこれなくて」と私が言うと、
「だいじょうぶだよー」と笑う。
ワーカーさんから聞いてるよ。会いたい会いたい、なんで会いに来てくれないと、ずっと言っていた事を。
しばらく一緒にすごして、「またね」と言って席を立って、
帰ってくる時、運転しながら、涙が止まらなくて困った。
私が家を買った理由は、叔父が死んで勝子母が一人になった事と、若年性痴呆症にかかり面倒を見る以外の手が見つからなかった貴美子母と、妹たちと姪を見ていくには、何十万の家賃を負担するよりも「買った方がいい」の判断からだった。
私は勝子母に聞いた、「お母さん、貴美子さんも一緒だけど、いい?」と。勝子母もまた、貴美子さんに苛め抜かれた一人でもあった。その時勝子母はニコニコしながら言ってくれた。
「大丈夫!れいかを生んでくれた人だから!大丈夫!」
私はとても気狂いだけど、ある部分ではものすごくまっとうなところがある。「どんなことがあっても、手を放さない」という所。
これは、勝子母から叩き込まれた、勝子母の遺伝子なのだろうと思う。だからそういう所は、もっとちゃんと大事にしないといけないね、お母さん…。
そう、思いました。