母をリビングの隣のお部屋で寝かせて、

私はリビングにお布団を敷いて寝ることに。

寝るお部屋とおトイレがお隣同士にありますが、一人で行くのはやっぱり危険なので、「声かけてね」とお願いしました。

 

HAPPYでした。本当に本当に、母のいる時間は幸せでいっぱいでした。美味しいと言ってご飯を食べてくれる姿も、「れいか」と呼んでくれる声も、歩くために手を引くことも、全てが幸せな時間でした。

 

そしてそれは同時に、もう、決して元には戻れない、という現実をさらに私に突き付けた瞬間でもありました。ほんの1か月半前はクイックルワイパー片手に階段を掃除しながら階段登ってきたり、食べないくせに私の分だけご飯を作って待っていてくれたり、ふたりでテレビ見て笑って、おやすみっていって自分の部屋に分かれる、そんな「当たり前」はもう二度と訪れない事を、改めて知らされる時間でもありました。

 

わかっていたのに。

わかっていなかったわけではないのに。

どうしてこんな風に思って傷ついてしまうんだろう…。

 

色んな事が「わからなくなった」母。

想い出だらけの家なのに、自分の部屋がどこかもわからなくなった、母。

母が寝たのを見計らってすぐ、私は母の部屋を片付けにかかりました。

いつか本当の「想い出」になってしまったら、

私は何も捨てられなくなって、

想い出の中で忙殺されてしまう、そんな気がしたから。

 

父が亡くなった時につけていたリストバンド。父の眼鏡。父のキーホルダー。父の定期。うそでしょう?と思うものが沢山出てきました。その中でもうそんなに遠くはない「死」を意識しながら、これは一緒に棺に入れよう、なんてこんなに幸せな中考えている私は、どこかすごく冷静であって、どこかすごく現実的であって、それでも、今日母と別れた後は、感情に押しつぶされて、泣きに泣きました。

 

こころをふたつ。

こころをふたつに分けておかないと、崩れてしまう。

だから私はおのずとそうしたんだろうと、今少し冷静になって思います。

 

そして、明日から始まる検査の結果次第で、

一つの結論を出すことになります。

あたらしい抗がん剤にまたチャレンジできるのか?

このまま退院して「緩和ケア」にするのか。

ガンの進行が止まってくれていた、1年と半年。

再発の最悪な診断として出た「髄膜炎」の完治はあり得ない。

それでも今位意思の疎通が計れて、今位の生活が出来るならば、

緩和にするべきなのか?

髄膜炎を抑える照射をしながら、またさらに新しい抗がん剤に挑むのか。

命は長らえるのかもしれないけれど、

目から鼻から口から血を流して苦しんだ今回の治療に意味がなかったから断薬したのではないのか?

断薬した今の方が、病魔は進行しても、充分に母らしい生き方をしているのではないか?

 

なるべく痛くなくて、

なるべく意思の疎通が計れて、

なるべく長く幸せに生きていられる方法はなんなのか…。

 

父がなくなる少し前に、私と母は「延命」についてぶつかったことがあります。母は「延命しない」私は「延命する」でのぶつかりあい。

私は子供だったんだな、って今になって母の気持ちがわかる。

 

緩和ケアの項目にはきちっとかかれている。

「延命はしません」と。

私はそんなこと言った覚えはないから、きっと母が言ったのだろうと思う。

どんなことになっても生きていてほしいんだ。

生きていてくれるだけでいいんだ。

その気持ちは変わっていないんだけれど、

今なら「延命を望まない」気持ちもわかる様な気がします。

 

今日はお風呂にも入りましたよ。

とーっても気持ちいい!そうです照れ

そしてお風呂の中で「れかちゃん、200万円あったから、しまっておきなさい」と言われました。はて????

よくよく聞くと、お仏壇に200万円飾ってあるそうです→飾っていませんw

あとね、畳の部屋にそれを隠してあるそうです。

それをものすごく悪そうな顔をしてこそこそ話してくるんだけどねw

 

うち畳の部屋ないからねーーー!!!

 

どこからその話が生まれたのかわかりませんけれど、

わかった探しておくね!って言ったらニコニコっと。

ただなんでかわからないけど、私があげたお財布の中に、五万円へそくり隠されていました(w→見つけたウインク

 

でもって驚いたのが通帳!

 

なんとネットバンキングに申し込んでいました!!!( ̄□ ̄;)

…パソコンいじれないのに…何故…???摩訶不思議すぎるw

 

まぁでも、お金がかかりすぎているのでね、少しは足しにしないといけないね、と思いました。

 

とても幸せで、とても覚悟が出来た、貴重な二日間でした。

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お母さん大好きですニコ