ここ数日でものすごく頭にきたこと何度もある。


「死」を弄ぶ人が多すぎる。


「死」は必ずやってくる。

「生」を受けたものならば、誰でも。それは人間にだけ限ったことではないし、

動物界の頂点に立つ私たち人間は、色々な「死」の上で、生きている。


真夜中にメールという便利な機械を使って「これから死ぬから」と送る。

誰だって本気にする誰だって心配する。

…私ぐらいかな、何とも思わないのは。

私は幾度か「自殺」という行為を身近で見てきた。

その「行為」をした人間たちは、その直前まで仲間とご飯を食べ、げらげら笑っていて何ら変わった様子などなかった。でもそのまま用意周到に車の中には練炭があった。そしてそのまま逝ってしまった。

前日まで芝居の公演をやっていた人もいる。

次に発見されたときはぶら下がっていた。

私の姿が見えなくなるまでいつものように窓から手を振っていた私の祖母は、

その後で袋をかぶって入水し、自らの命を絶った。

残された人間は、あまりにも変わらなかった日常にただただ唖然とする。

原因は何だったのかと、自分たちに出来たことはなかったのかと後悔して自分を攻め続ける。

私はぼんやりとした思考の中で思う。

もう、「死」にとりつかれてしまっていて、

その事だけを考えていて、

普段は何事も無いように普通なんだと。

だから、私たちのように「生」に執着がまだある人間は、その心を探る事なんか到底出来るはずがない。


それでも、かまってほしくて、最終的な手段みたいにして、

「これから死ぬ」とか「残り時間は少ない」とか、

嘘だか本当だかわからないような事をやるやつが多すぎる。

そして心優しいみんなはそれに翻弄され、「愛情」と言う名の「同情」を持ち合わせてしまう。

私の周りのそういう人たちは、病気の事も精神疾患の事もおくびにも出さない。

全力で「今」を生きている。


今病気で苦しんでいる人はたくさんいる。

だったら命を取り換えてあげれば?なんて陳腐なことは思わない、けれども。

「死」を弄ぶやつは本気で許せない。


私の親友は19歳と言う若さで死んだ。

私の父は「死にたくない、死にたくない」といって死んだ。

事故にあって一瞬でなくなってしまった私の親友のお母様もまさか、そんな事が起きるなんて思わなかったと思う。そして、その家族も。


「死」は必ず、誰にでも平等に訪れる。

長いか短いかはわからない。

だからこそ、今の一瞬一瞬を大切に生きてほしいと思う。

「当たり前の明日」が、誰に出も来るわけではない事を知ってほしいと思う。


だから、「死」を弄ばないでほしい。

時が来たら、人は誰でも死ぬのだから。