12時には病院につき、転院の手続きを開始し、

そこから病棟に上がって、貴美子母を迎えに行く。


「よかったねー」とか看護師さんに言われました。

お世話になりました、と言った後、貴美子母と手を繋いで、駐車場へ。


そこで、あまりにもスタスタ歩く母に驚愕しました…。

さすが不死身伝説orz


うちのお寺さんは八王子にありますが、そこをさらに越え、高尾山も越え、

…一体全体どんだけ走るんだろうとおもいつつ、

住所は検索しても出なかったナビに電話番号をいれてひた走ること1時間半。


たどり着いた…。

ここは「多摩」だ。。。


車中で、「私どこが悪いの?」「私いつ帰れるの?」ひたすらに聞いてくる。

「もう、家には帰れないよ」って言葉を飲み込みながら、

頑張って病気なおそうね、といっても、

自身がどこが病気なんだかわからないので、話のつじつまが合わないのだ。

だから、そこが彼女の「病気」なのだ…。


あまりにも元気。

よたついていたはずの足もしっかりしてきている。


ここが病院?と思うほどのホテルのようなエントランスで、

そこから3階の病棟に移ると、

この病院は長期療養型なので、

3か月たって病院がもうからなくなったからポイはしない場所なので、

沢山のもう、ぜったいに「こちら側」には戻ってこれないであろう人がいた。

一番最初の精神病院の隔離に入った時の感覚を思い出した。

「…いやだな」と母がポツリと言った。


それでもすたすた歩いて病棟に入り、

先生の説明もちゃんと聞いた。

先生は事を理解していないようで平気な顔で「特養」とか「老健」とか言ってくる。

母のいないところで話しをしていただけませんか?と話を遮った。


今度は持病の話やら家族構成、以前の病院歴をきかれるんだけれど、

とにもかくにもうちは複雑だ。

私は「非嫡子児」なので「長女」ではない。

「へぇーそれで認知されなかったんだ??」


…それと今何の関係があるの?

意味が理解できなかったし、言っても言っても病歴(入院歴)の話が通じなくて、

私の語気もあらくなる。さすがのワーカーさんがあまりの先生のわからなさ加減に、逆に私を援護してくれて、その場を何とかおさめてくれて、ワーカーさんが私に謝ってくれた。


私の頭の中はもう、すたすた歩く貴美子の事でいっぱいになっていた。

連れて帰りたい。連れて帰りたい。もしかしたら、もしかしたら…

一度決めたことがまた揺れ始めた。

http://ameblo.jp/reika-kun/entry-11829365011.html


涙が出て来て止まらなくなった。看護師さんもワーカーさんも黙ってみていてくれた。

結果を揺るがせることは矛盾だらけだ。だけど、でも。


もう一度病室に戻って、

泣いた顔を貴美子に悟られないように、

「またね」といって手を繋いだ。

おそろしい位にやわらかな母の手。


前の病院のワーカーさんからもお手紙をいただいて、

比較的早く入れる特養の紹介状が入っていた。

本当にお世話になりました。戻ってから電話をしましたが、すでに転院先から連絡が言ったようで、

「レイカさん、よくお考えになった方がいいです。今はね、今はしばらくあちらの病院で様子見てもらいつつ、レイカさんがお休みになられた方がいいですよ」とやさしい言葉をかけて下さいました。


私はなぜ、母を恨んだり嫌ったり出来ないのだろう。

生まれてすぐ捨てられて、ほぼ一緒に暮らしたこともなく、

暮らした間はことさらひどい事しかおきなかった。

病気になってどうしようもなくなって家を買った。

そこでも喧嘩の種は尽きることはなかった。


「許す」ってどういうことなんだろう。

「許す」ってこういうことなんだろうか。

私は何もいい想い出がない彼女をただひたすらに、はっきりと「愛している」と言える。

ムカつくことも、お互い殺し合い寸前になった事もある。

なのにこの感情は、この矛盾した感情はどこから湧いてくるんだろう。


病室から私が見えなくなるまで、手を振っていた母。

見えなくなってからまた涙がこぼれた。


…疲れた。

帰りの高速、どうやって走ってきたかわからないくらいに、疲れた。

戻ったら勝子母が笑顔で「おかえり、ご苦労様」と言ってくれた。

私が守るべき人は、勝子母なのだ。

揺れて揺れて揺れた気持ちを勝子母に言うわけにもいかない。


ただいま、貴美子元気だったよ!といって二人で笑った。


途方もない矛盾に支配されながら。