今日もご訪問
ありがとうございます。
素晴らしい本や文章に出会ったり、
格言名言に感動したり、
インフルエンサーの発信に同感したり、
自分もそうしようと生活や生き方を変えようとしたことがあると思う。
納得する人生になっただろうか?
アスリートのトレーニング方法や食事法を真似てみたところで、
自分もうまくいくとは限らない。
それまでのプロセスが違うのだから…。
自分と対象者は違うのだから…。
感動したものごとがきっかけになることはあっても、
その通りに生きることはできない。
なぜか?
その答えがこの本にはあった。
続きになります。
「 境涯 」とは、
人格の水準、
人としてのレベルのこと。
その段階を、
前回、3段階までみてきた。
① 主観的自我
② 客体的自我
③ 客観的自我
①~③ は、
「 人称的自我 」と称している。
これは、
現実に支配され、
どのように生きたらいいかとか、
どのように対処すべきかといった「 私利私欲にとらえられた小我の世界 」である。
人間である限り自我はなくならない。
自我を否定してきた過去の宗教や倫理から抜け出し、
「 小我から大我に成長させていく 」ことが、
人間を生ききる醍醐味だということだ。
さて、
その先の段階を記しておこう。
④~⑥ は、
「 理念的自我 」としてまとまっている。
この段階は、
「 なんのために生きるのか、この命をどう活かしていくか、与えられた命をなんのために使うか、という理念、理念を問いながら境涯を形成していく段階 」
なのである。
④ 「 超越的自我 」
主観的自我(第一人称的自我)の発展したもの。
(利己的欲求が理性化される)
権力的になり、目的のために手段を択ばない。
好ましい人間ではないが、
「 自分の持つ潜在能力を出し切り、自己を実現し切って個性的な能力を持った本物の人間になるためには、必ず通らなければならない 」
大切なプロセスだと論じている。
⑤ 「 去私的自我 」
博愛的、奉仕的。
自然の摂理に任せる。
「 自分にできる最善のことを尽し、あとは天命を待つといった生き方になっていく 」
だが、神仏の存在が外にあるため、
(「神仏に自分の運命を支配されている」)
神仏に近づこうと努力しがち。
清貧に甘んじてしまう。
感性論哲学では、
清貧を超えて、
清富をめざす。
⑥ 「 統合的自我 」
運命は自ら創造するという立場。
神仏は自分の中にある。(一体感)
「 自分の命は神仏によって、すなわちこの大宇宙、大自然の力によって生み出されたものである。だから、この命には神仏の意思が働いている。」
これは、
自分を通して神仏の意思を実現している状態といえよう。
「 神仏によって何かをやらされるというのは、やらざるを得ないような、やりたくてしようがないような欲求が湧き上がっていること 」
感性からでしかこの状態は生まれないという。
人間の本当の喜びは、
本物の人間になること。
納得のいく人生を歩むこと。
そのために人間修行を積んでいく。
人間修行は段階を踏まなければいけない。
飛び級はないし、
今まで見てきた六段階の一つでもやり残すと、
なかなか先へ進めなくなる。
そこで止まって一生を終えるということさえある。
わたしは感性論哲学を知って、
危うく、
できたつもりの人生を送ってしまいそうだったと気づいた。
たとえば、
利他の本を読めば、
利他を心がけようとするが、
利他ができるには、
まず自利の段階を卒業してなければならない。
芳村思風先生の言葉は易しくわかりやすい。
その理論は、
心に深くしみ込んだ。
6段階の先にもう一つある。
この境涯に達すれば、
なんと楽しく心豊かに過ごせるだろう。
ご興味ある方は、
ぜひ…。
【今日の想い…】
真面目な本が続いたので、
そろそろ喜怒哀楽盛り盛りの小説を読もうっと。
バランス大切。
美を求める執念は尋常じゃない…。
原田マハさんの小説は、どれも素晴らしい!
最後までおつきあいいただき
ありがとうございます