今日もご訪問
ありがとうございます。
哲学や禅や仏教など興味があっていろいろ読んできた。
惹かれた言葉が「無我」「無私」など「我」を拒否するもの。
どうやってもなくならない。
「我」
欲に流されたり、
人より上になりたがったり、
多く欲しがったり…、
そんな気持ちに気づくとうなだれる。
そんな時に出合った本。
感性論哲学
「 人間であることを大切にし、人間であることに感謝して、人間を生き抜く哲学 」
そこでは、
人間は絶対に自我を捨てることはできないという。
では人間はどのようにして生きてゆけばいいのか?
「 自我を小我から、大我に成長させていくこと 」
救われた気がした。
そこで「 境涯 」の意味がわかった。
「 その人の人格がどの程度まで成長しているかを表すもの 」
すなわち、人格の水準、人格のレベルといってもいいだろう。
人は、頭脳を持ち自然環境を思うままに変えてきた。
その万能感から、
人間を超えたものになろうとしてきた。
悟って仏や神になれると信じたことさえある。
まず人間を生ききること、
それからのことは神や天がしめすのだろう。
段階があるということだ。
感性を理性(自我)によって鍛えていく。
それが境涯の成長である。
自我の目覚めはどんな時に起きるのだろう?
知識や経験が積み重なり、
わたしはどんな人間かと気づく時だ。
幼いころを思い出してほしい。
自分を意識したことがあっただろうか?
あらゆることに夢中になりそれこそ我を忘れて生きていた。
そしていつの日か、
わたしはまわりとちがうと気づく。
知ってしまったからには幼きころの夢中感にもどれない。
知識や経験(理性)を積んで、
感性(本音や実感)を鍛えていくことが、
人間を生きるということだと本書は論じている。
では境涯の段階は?
① 主観的自我
自己中心的→「 自我が自分の外側の世界に対して向けられている 」
「 どんな立派な聖人君子でも、利己的な欲求、自己中心的な立場をみんな持っている 」
このことを決して忘れてはならない。
そうでないと次の段階へ行けない。
自分には自己中心的なところがあるように、
相手(他人)も同じように自己中心的なところがある、
と思って接することが大切。
② 客体的自我
「 相手の立場に立って考えるのではなく、相手の立場に立って感じること 」
相手のことを頭で考えるのではなく、
心で感じること。
内省や自己批判の立場。
感性が鍛えられる。
注意しなければならないのが、
思いやりのはき違え(「 利他的欲求に支配されるお人好し 」)。
自分は我慢して相手のためにやってあげているという善人づらに酔っている人。
③ 客観的自我
メタ認知や俯瞰して観る、といったことだと思う。
「 自分、および相手を、第三者の立場から見たらどのように見えているかということを全体としてつかむのは、現実の中で生きていく人間にとっては非常に高い能力である 」
①②で生涯を終わる人がほとんどと言われると、
自分を育てていくのは、
大変だけどやりがいがあると思った。
この先にも境涯がある。
それについてはまた別の機会に …。
【 今日の想い… 】
良寛
「 散る桜 残る桜も 散る桜 」
「 あれこれと人に講釈するのはやめなさい 」
一休宗純
「 もし私の性欲を昇華して雅やかな歌にかえられるなら、その価値ははかり知れぬほどの黄金に匹敵するはず 」
「 私は元々道に迷う凡夫であって、愚かな迷いが深いので迷っていることすら気づかない。しかし、悟りに至らなくても、もし道を求める心さえあるならば、自然に成仏することだろう 」
最後までお読みいただき
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