11月17日は母の祥月命日です、早いもので7回忌を迎えました。
我が家の仏壇の中には微笑む母の遺影があり、それ以外にもう一枚の写真には温泉で寛ぐ母と私の二人で酒を酌み交わしている一昔を思い出す懐かしい姿が飾ってあります。
膵臓癌で亡くなった母は自分の病名は告知されていませんでした、家族もあえて伝えずに病状の回復を願いましたが7年前に静かに他界していきました。
一度目の手術を終えて患部の摘出手術を無事に終えてしばらく自宅で療養をしていましたが、再発して再入院そして再手術に臨みました。
手術後に見舞いに行くと私を父親と見間違えて「来てくれたの!」とおぼろげな眼差しで亡き父と対面していました。
学生時代の父は剣道部で母は水泳部と二人して運動が大好きでした、二人の出会いは通学の電車の中、いつも同じ時間に出会う二人は見初めあい大恋愛だったと、酒を飲みながら昔話をしてくれました。
豊かではない家族で二人は育ちました、物が買えないと文学少女の母は新聞に和歌を投稿して入選して賞で文房具をいただいたのが自慢話でした。
若かりし好青年の父親に淡い恋文をいっぱい書いたことでしょう、父親のもとに赤紙が来て陸軍に入隊した父は戦争から生きて帰ってこれたら結婚しようと、告白されたことなど、酒がすすむと辛い戦争時代の生活を涙してその当時を語っていました。
幸いにして生きて帰ることが出来て二人はむすばれ結婚して、私が生まれました。
苦労して東京に来て一念発起した父は機械製造関係に努めて、その功績を得て独立して事業家へと成長していきました。
これを支える母は苦労が絶えない毎日でした、私は母の内職をよく手伝ったことが思い出します。
母の手伝をしながら喜んでくれたことは家族の中で長男の私が一番知っています。
それと共に私自身が健康を害して心配をかけてのも私が一番に心配をかけてしまいました。
小学校3年から実家を離れて沼津の養護学校で6年まで健康を取り戻す為に過ごしたことは両親と引き離された人生の最初の体験でした。
父は仕事に専念して実業家として成功していきます、母は私の後に長女と二男を育て、会社の若い社員の面倒を見たりして忙しい日々でした。
青木の家の長男である父のもとにはよく親戚の誰かが東京にくれば泊りに来ていました、その時の親戚は母のことを「姉さん」と呼ばれ方をしていました。
大正生まれの父、昭和生まれの母の出会いがあって私達家族がいる、命をいただいたことに感謝すること、生きざまを大切にすることも両親から言われ続けたことは私の魂に沁み込むものです。今はこうして癒しの道に生き次の世代にレイキヒーリングを伝えています。
母の命日私にとってかけがえのない母のことを思い出して朝の務めをしました。
私を産んでいただき、使命に気づき「生かされていることに感謝する」毎日を過ごしていますと母と語り合いました。