通常のレイキ研修は週末に予定を組んでいて、最近は平日のコースも受講生の希望により開催するようになりました。
交流会は第3週の木曜日に定期開催して、卒業した皆さんのフォーロアップを行いますが、なかなか日曜日に予定を組む事が出来ません。
その様な諸事情の中で日曜日に特別レイキ交流会を行う事を決めてHPに案内しました、「日曜日なら参加できる」と言う懐かしい友が参加していただき17日は満席の会となりました。
一週間前に幸力の会で曹洞宗大本山総持寺で参禅会が行われた事もあり、臼井先生が55歳から58歳まで禅の修業を積んだことを踏まえて「レイドウレイキの展望」というテーマで久しぶりに講演をしました。
いつもなら原稿など書かずに講演するのですが(原稿で講演すると原稿に書いた言葉に支配されて生きた会話が出来ないからなのです)何故か今回はしっかり伝えるべき事を書いてみましたので原稿を一部抜粋してお越しいただけなかった皆さんに少しだけブログを書いてみました。
人間臼井甕男の禅修業とは如何なるものだったのでしょう?
禅を一言で語ることなどは出来ませんが、禅の探求とは「道を求める」と言う思想ではないでしょうか!
私の知るセンターにある円相を描いていただいた禅の先生は禅の修業は頭より身体で体験しなさいとよく言いました、その後は経験しなさいと付け加え教えられます。
体験と経験の区別が余り明確に使われていないことが多いのですが、禅の修業では
体験がまずありそして経験があると言う教えです。
体験とは、読んで字のごとく「身体がためす」「身体があかす」「身体が確かめる」なのです、その後経験へと通過しなければなりません。
経験とは、実際に見たり聞いたり、またはそれにより得た知識や技術を言います。
禅の修業とは決して手っ取り早く知ろうとしても分かるものではありません。
禅の体験とは身体で体験することに尽きるのです、禅は修行の連続で身体の小宇宙が悟りを得るために命がけで行う修業なのです。
臼井先生は禅の修業ではなかなか悟りが得れずに師に相談しました、ならば一度死ねと言う言葉をいただき断食修業に入りました。
その後のことはレイキの研修で語る通りです、臼井霊気療法学会の先達はレイキは一朝一夕にして体得は出来ませんと断言されます。
今日我々はレイキが誰にでも出来る、そして安全・安心・簡単の代名詞のヒーリングテクニックと多くの皆さんの認識が高くなりそれはそれで嬉しいのですが功罪相半ばすの観は歪めません。
レイキはあまた照らす神々しい気でレイキを知らぬ皆様もその恩恵を受けています、生きとし生けるもの全てに平等に与えられものなのです。
レイキ療法とはその存在を認め受け入れ人生や生きとし生けるものに反映させる事だとすれば、だれでもその偉大な恩恵を受け取る事が可能です。
レイキを学ぶ我々は「生かされている喜びを感じる感覚が開示されるのです」。
レイキは宗教ではありませんが、健康と言う入り口から悟りと言う境地を獲得する道の探求であるならば、禅の修業と臼井霊気療法の教えは深いところで相通じていると思います。
禅の本質と言う考えを特別交流会に参加した皆さんには差し上げましたが、それを深く理解すればまさしく「宇宙即我・我即宇宙」とお分かりいただけるでしょう。
レイドウレイキの展望とはこれからも変わらずに行雲流水と教える禅の道と同様にレイキと共に生きそれぞれの「道の探求をする」と言う事です。
今回総持寺の参禅で落雷に打たれながら、聞こえた声は「悟ってどうする?」という響きでした。
この言葉をレイドウレイキは肯定的に受け取り、参加した皆さんにも尋ねました、一人一人の描いている悟りの境地がすでに始まっていることをお伝えしました。
レイドウレイキは精神世界と日常生活の両輪が調和が取れて人生を全うする事が大切だと主張しています。
自分を慈愛の心で深く探求していこうとする同胞や、病からの気づきを得て心の平安を取り戻し本来の自己を取り戻そうと志す皆さんと出会って行く使命があります。
私の尊敬する山田無文老師の言葉に「大いなるものに抱かれあることを、今朝吹く風のすずしさに知る」と言う境地で過ごして行こうと念願します。