【今日の禅タロット】
この世に生まれて出て、段々と、自我が芽生えてくると、視界には、自分とこの世、宇宙が現れ、認識出来るようになる。
視界は、外側を向いているので、宇宙は外側にあると思っているけれど、あなたが生まれ出たからあなたの宇宙が現れたのであって、あなたがいなくなればあなたの宇宙はなくなる。
自己の宇宙は内側にあり、視界に広がる外側の宇宙は、自己の宇宙の現れである。
そして、この世は、自己の宇宙の現れた環境と、誰かの自己宇宙が現れた環境が、複雑に交差し、時間が流れている。
それぞれを取り巻く環境は、全く同じ環境というのは一つと無く、自分の環境と、誰かの環境が、複雑に交わり合って、ぞれぞれの自分とこの世、宇宙を形成している。
だから、宇宙は、私が!とか、どう生きるか?とかだけではないと知ろう。
私が!とか、どう生きるか?とか、悩ましいけれど、あなたは一人では、生まれ出てこれなかったし、生きていないし、生きられない。
どうしても、どうなることもあれば、どうにもならないこともあるし、どうしなくても、どうなることもあれば、どうにもならないこともあるくらい、宇宙というものは、大きい。
視界に広がる宇宙は、認識に、限りがある。
自分が!とか、どう生きるか?とかが、視界を狭めてしまうこともある。
全てのことに、宇宙のおかげがある。
あなたの視界に存在しなくても、存在している宇宙がある。
例えば、口に入れるお米を、誰が作ってくれているかを知らなくても、その誰かが春から秋という誰かの時間=命を使って、作ってくれている。
今この瞬間、どこかで、知らない誰かが、知らない誰かの幸せを祈っていてくれている。
そんな、宇宙の恩恵に気付いた時、自分がと!とか、どう生きるかとか?とかちっぽけではなく、この大いなる宇宙の中で、自分は生かされていて、自分には何が出来るだろう?と考えるだろう。
それは、宇宙の広がりだ。
自分が!とか、どう生きるか?とか、そんな悩ましさに伴う痛みは、
「私はここにいるよ、気付いて」
という、誰かの痛みかも知れない。
隣りを見てみよう。
手を差し伸べよう。
自分が!とか、どう生きるか?とかも、それも確かに、モチベーションになったりと、大切ではあるが、我欲にまみれた、自分が!とか、どう生きるか?とかで辛い時は、自分が!の小さな宇宙から、みんなが!という大きな宇宙へと、シフトアップする時かも知れない。
「さぁ、私達、どう一緒に生きて行く?」