姿なきパートナー(シャドー)は
人が自らの狂気に気づけるよう
それを表に出してくれるもの。
いわばメッセンジャーのような存在です
気持ちが不安定になったり、
相手に対して過剰反応が起こったりするときは
隠してきた感情の渦が心の底にあるのです。
↑これこそ
今の仕事に対する意識のわたしのシャドー
私たちは、自分の内にある
認めたくない性質や
好きになれない性質と向き合うのを拒絶し
それを誰かに押し付けてしまおうとするからです。
目を背けてきた
姿なき異性(=影)を受け入れると
副産物として 私たちは 初めて
外側の世界の本当の他者(パートナー)
とも繋がることができるようになります。
あなたの狂気(シャドー)を承認し、
解放してみる。【※くれぐれも一人の時に】
すると
内面では真逆のことが起こります。
大声で叫び、狂ったように踊ることで、
自分運動という台風の渦の中心にある
「静寂(台風の目)」に気づきはじめます
目を背けず、
ただあるがままを見ることができたとき
あなたの内なる本性が
偽りのあなたを消し去ります
闇の底へと沈めば
偽りの光(見られるもの)が消滅し
「見るもの」があらわれます。
思考や感情という刹那の雲は
「見られるもの」であり
雲は来ては 去ってゆきます。
〜抜粋終わり〜
ちょうど、HSPの本に出会った際にあった
シャドーについて書かれた本。がこちら。
やや、難しいですが。同じ感じだと思います。
私がそれを見て
私の一部だと受け入れたとき。
私は、自分で自分を否認したり
抑圧している感じを
偽っている感じを
コツコツ見続けていく必要がある。
非難すべきものは何もないということ。
自分の負けに降伏することは
負けを意味するのではない。
負けを味方につけるのだ。
もう1つのブログも、似たようなあるがままについて書かれています。
罪悪感について書かれたコチラ↓
罪悪感をリセットする 藍色シアンさん
あるがままの自分嫌な感情 もOK 〜以下抜粋〜
嫌な感情を「それあるんだから
それはそれでいいっしょ」・・に
してみるってこと
その感情に「そこにあっていいよ」と
肯定してあげられるってこと
それが習慣化すると
それがあるがままになっていく
つまりどんな感情であっても
それをコントロールすることなく
あるがままに従い
現実はそのあるがままの幸せが
映し出されたものになる・・
〜抜粋終わり〜
見たくないシャドーを見つめることで
より、自分の中の世界に、光と影を統合し
自分の中の完全さを取り戻す。
到達すべきは
意識の変容、拡大だということ。
そう思えたら
ラクになりました。
人を責める気持ちや、自己弁護が要らなくなりました。
わたしの好きが見えてきました。
自然派のビオワインと 純米酒