屁日常 he-nichijou | 山本清風のリハビログ
 年下の知己が教えてくれた、あらゐけいいち著『日常』がアニメーションになった。過日古書店で四、五巻を求め、最新六巻はクレジットカード切換に伴ってスイカを遣い切るために購入した。奥付をみると、家主不在の知己の家でひとり、四巻を読んだのはもう、二〇〇九年のことらしい。光陰矢の如しとは、突き刺さるような諺である。



 設定が極まってきての四巻では続きもの、天丼、パロディ、ゲームねた、齣割(こまわり)の間、実存くん(コージ苑の無機質な表情おち。但し日常に於いては、うろ覚えで描いたナウシカのような表情をしている)など各種ねたが最初の沸点をむかえ、ラーメンズの小林賢太郎も好きなスターバックスねたも既に披露されている。ただ、どちらが先かはきちんと調べていないので、ねた元についての言及ではない。



 四巻から意識的に萌芽されている“かわいいおち”とでも呼ぶべき展開が五、六巻と顕著になってきて、アニメーションにも反映されている。それはそうだろう。幾ら面白いからといって、登場人物の声をそこらのばばあにやらせるわけにはいかないのである。



 ポップさ、客層の反応、以外にも声優事務所やその周辺との絡みもある。時給一〇〇円でそこらのばばあに発声させるのは、結句演技力の欠如、タイアップの不味さ、くりかえしになるが客層の反応やポップさそして、口臭を伴うだろう。いっときの笑いと廉価に揺れてはいけない。サントラをばばあに唄わせるつもりなのか?



 ともあれ、ちょっと観るのがはばかられるほどのかわいい雰囲気である。『日常』は一作で『あずまんが大王』と『よつばと!』を兼ねてしまおうとしている。これだから名前がひらがなの人は油断がならない。ばんばひろふみに注意せよというわけではない。



 原作とアニメーション(逆の場合もあるが)どちらを先に観るかというのもあろうと思うが、笑いのテンポと間、これは『苺ましまろ』だとアニメーションのほうが好みだった。天丼がちょうどいいタイミングだと感想した。『日常』の場合、この“静”の空気感はアニメーションでは損なわれているよう思われた。



“ふっかつのじゅもん”ねたは解りやすいように並列されていたが、原作のあの異常な間隔の空きかたにはそれ自体に価値があるよう思う。ともあれ、アニメーションはドラクエへの愛が満載である。



 オープニングを唄うのはヒャダインという人(々)である。私はこの歌い手を知らないが、なんとなくグループではなしに、敵全体に八〇平均のダメージを与えるような印象があり、昔から知っていたような感じがする。ブライの顔も浮かんでくる。



 この曲はいわゆる電波ソング的な構成であり、そこがポップかつキュートな印象を加速させている。電波ソングが極まると、キャバレーとアニメイトの垣根がなくなるような欲望への直結が起こる。文学がラノベやエロゲーに継承されたように、パラパラやトランスが継承されていることを、知らない人々は知っておいてもいいかも知れない。



 しかし劇伴、これがちょっと驚いた。ドラクエのサントラ調なのである。フルオーケストレーション。街のテーマとトルネコのフィールドがループしているような感じ、そしてドラマティックな印象も。これがどうして驚くべきことなのだろうか?



 イメージかも知れないが、昨今のアニメの劇伴はテクノ調である。つまり打ちこんでいる。予算が安くすむのだった。多少ギターの弾ける人が宅録した、というような印象のものが多い。そのため『日常』の劇伴は、フルオーケストラ仕様であってもあるいはサンプラーによるものであっても、同等に驚きのある音楽である。なにより子供のころ、スーパーファミコンを買ってもらえずドラクエⅤのサントラを聴き、子供心を慰めていた自分としては染みる雰囲気ではある。



 ではアニメ化は失敗か、といえば決してそうではない。アニメ化は“感情を殺すこと”に於いては失敗しているが、“感情を生かすこと”に於いては、劇伴も相俟ってじつに効果的である。動的なねた、ドラマティックな演出、そして『よつばと!』的な
“懐かしいけれど、初めから世界に存在していなかった憧憬”
 としての平和を描くこと。たとえば東雲研究所のねたは漫画ではあまり好きではないけれども、アニメではセンチメンタルですらある。



 ぜんたいに漫画とアニメで好きなねたが逆転していると感慨した。すなわち結論的に“アニメ化には意味がある”ということを示しているし、初めて知った真理かも知れない。少なくとも『おぼっちゃまくん』の時には解らなかったことである。PCエンジンのゲームまでやるほど好きだったのに。



 ちなみにタイトルに悪意はなく、この作品を教えてくれた年下の知己にも感謝している。たしかに自分はいま酔っているが、普段は酔って文章など書かないが、屁ぐらいたれ流してもいいじゃないか。もっとたれ流してはいけないものが山とある。



 最後に私が云いたいのは「甘食は万能ではない」ということだ。これは鳥居みゆきの「ハッピーターン」にも云えることだし、ミルメーク、やきそば弁当、スターバックス、などもそうだろうが、北海道の片田舎から上京した自分としては、ローカルねたの分量が多いとギャグ漫画がまるでシュールレアリスムになってしまうので、あまり頼らないでほしいという都市部の人々へのお願い。



 というか甘食、ハッピーターン、スターバックスを結ぶのは“女性受け”である。小林賢太郎は加えてゴディバ、ジブリ全般を引用するあざとさが気になる、と意識している自分も相当にときめきトゥナイトやいくえみ綾について書いている。アニメのほうは皆口裕子の声が、彼女らしくない(往年の蓄積したイメージとの齟齬)と感じたことが一番大きく感情が動いた瞬間だった。私が文学しているうちに、きっとなにかが起きたに違いない。



 やっていないのでなんとも云えないが、私はきっと『ラブプラス』だと思っている。