考えるケーキ | 山本清風のリハビログ
 ふむ。「いまこそ呑んで経済を廻せ」と経済学者は威勢がいいけれども、今後明らかに懐のさみしくなることを思えば、そう赤ら顔をぶら提げているわけにもいかない。



 企業主としては「この時勢だもの解るでしょ」顔で給与を削るだろうし、我々は「やっぱりな」顔で現金自動預払機の前に佇むことだろう。そもそも酩酊時に地震があれば、死ななくてもいいところで死ぬるかも知れぬ。学者とはいつも無責任である。



 だが鳥がさえずるように、学者は学説を唱えるだけである。それが幾分、現行の節約傾向にカウンターしているようにみえる、それだけが目新しいことであって、経済学者がプルサーマルに関する画期的な提言でもしない限りは、しんに面白いとは云えない。



 現在の膠着する経済難に対し、得意満面の切り口がよろしくないのであって、これが飲食ということに限らなければ、私たちはすでに経済を廻し始めているのである。周囲をみれば、金銭がないのに飲食する人、賞与期でもないのに高級な時計を買う人、プロポーズをする人、とこのように宵越しの銭を持っている場合ではない。



 だから経済学者に不味い比喩を吐かれるまでもなく、我々は消費している。人生そのものが刻一刻消費されているのが、ありありと知れたのである。余計なお世話だ。私はぷりぷりしてメトロを降車した。ちいさくファックを唱えていた。



 つまらない吊るし広告に思案しているよりも、桜が満開である。私は細君に外食を提案し、近所にある大きな桜の木を仰ぐ飲食店へ赴いた。店内ではヒップなホップが流れて、露天の席は予約ずみであった。そして、窓際の席も予約ずみであった。しかし透明人間の団体が息をひそめているのか、いずれの席にも人影はなかった。



 毛髪を編みあげた女が推薦した席から、桜はみえなかった。



 私はしょぼくれた顔をして荷物を置こうとしたが、細君は「店を代えましょう」と流石に冴えていた。うんうんして、ちいさくファックを唱えながら桜のまったくみえないイタリア式食堂にいった。ここはドレッシングが美味である。



 海産物の投入されたサラダ、手打ちのパスタ、揚げた蛸にバルサミコ酢を絡めたもの、バケットをサラダの余ったドレッシングで喰らい、ハウスワインの赤を呑んだ。とても楽しかった。私たちは日々を謳歌せねばならない、それをゆめゆめ忘れてはならないのだ。



 ふむ。「いまこそ呑んで経済を廻せ」と、なるほど。



 しかしながらこのエントリはプロットがリリックしてマッシュアップなので、呑みかつ喰らったのは昨晩であり、経済学者を意識したのはじつは今日なのであった。弾き語りの大声同様、むこうから勝手に飛びこんでくるものは嫌いである。考える契機はすべて自ら選びとりたいような感じの人間です。わたくし。