キリスト教徒の一般的な考え方は、「神は全知全能であり、無謬性を有するので過ちを犯さない」というものです。したがって、神は、無謬性を有する以上、倫理的ジレンマ(the ethical dilemma)も有し得ないようにも思われます。しかしながら、聖書の創世記から黙示録までの神の決定や判断を研究すると、神にも倫理的ジレンマ(the ethical dilemma)があることが理解できます。特に聖書の中心的テーマの1つである「失楽園から復楽園」に関する神の目的の達成のための決定・判断にはその点を看取できます。
ところで、神は、創造の目的を達成するために7日間に渡る創造の日を設定され、漸進的に目的達成のための計画を進めてきました。問題は、創造の第7日目に発生しました。そして、創造の第7日目において、創造の目的達成の責任を負う最高執行責任者であったのは、天使長ミカエルでした。聖書の最初から最後までを整合的に解釈すると、天使長ミカエルは、神が最初に造られた天使であり、神の創造における最高執行責任者であることが理解できます(創世記3章15節、ルカ6章5節、ヨハネ1章1-3節、コロサイ1章15-17節、黙示録12章7-9節)。
そもそも、「失楽園」の端緒は、アダムとエバの禁令違反にあります。アダムとエバが蛇(実際には、サタンとなった天使)に誘惑されて禁断の木の実(善悪の知識の木の実)を食べて、神によりエデンの園(楽園)から追放された聖書の創世記の物語は有名です。創世記第3章では、蛇が人間最初の女エバを禁断の木の実を食べるように誘惑する場面が出てきます(創世記3章1-6節)。ここで蛇がサタン又は悪魔であることには異論もありますが、黙示録12章9節を見れば、龍=へび=悪魔=サタンであることを理解できます。神は、最初の人間夫婦アダムとエバに「善悪の知識の木の実をたべてはならない。もしその木の実を食べれば(食べたその日に)死ぬ」との禁令を与えられました(創世記2章16-17節)。ところで、下線部の現代英語訳版は、“If you eat any fruit from that tree, you will die before the day is over!”であり、「あなたがその木の実を食べれば、同日中に死ぬでしょう。」となります。すなわち、神は、アダムとエバが禁令を犯して「善悪の知識の実」を食べれば、彼らがその食べた24時間の1日にうちに死ぬと事前に宣言しておられました。
一方、エバは、蛇(サタン)に禁断の木の実を食べるように誘惑されると、蛇(サタン)に、“…He told us not to eat fruit from that tree or even to touch it. If wedo, we will die.”「神は、私たちにその木の実(善悪の知識の実)を食べても、触れてさえもならないと言われました。もしそうすれば、私たちは死ぬでしょう。」(創世記3章2,3節)と答えます。これに対し、サタンは、“No, you won't!”「いいえ、決して死ぬことはありません。」とエバを誘惑し、「善悪の知識の木」の実を食べさせ、その後、エバは、夫アダムに「善悪の知識の木」の実を与え、彼もこれを食べます。禁令を犯した二人はどうなったのでしょうか?結局、二人は、その日のうちには死にませんでした。エバの死亡年齢は不明ですが、アダムは930歳まで生きました(創世記5章5節)。後に、イエスは、“…the devil, …and everything he says is alie.”「悪魔(サタン)の言うことはすべて嘘です。」(ヨハネ8章44節)と言われました。しかし、サタンが「アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べても死なない」と言ったことは、少なくとも「その日(24時間の1日)のうちには死なない」という意味では真実となりました。
ところで、エデンには象徴的な木が2つありました。1つは「善悪の知識の木」、もう1つは「命の木」です。ここで明らかに「善悪の知識の木」は神の正邪に関する最終的決定権を、「命の木」は人間の生死に関する最終的決定権を象徴的に表していました。勿論、文字通りに、「善悪の知識の木」の実が人間に正邪の判断能力を与え、「命の木」の実が人間を不老不死にする化学的組成を有していたわけではありません。これらは神の排他的権限の象徴でした。すなわち、サタンが神の「善悪の知識の木の実をたべてはならない。もしその木の実を食べれば死ぬ」との禁令に反する「その木の実を食べても死なない」という助言をエバに与えたことは、最初の人間夫婦アダムとエバを誘惑して神の排他的な「正邪に関する最終的決定権」及び「人間の生死に関する最終的決定権」を否定し、同時に人間夫婦を自分の側に引き込んで神の排他的権限に挑戦するように仕向けたと言えます。結果として、アダムとエバは、神の「正邪に関する最終的決定権」を否認し、自ら「正邪に関する決定権」及び「人間の生死に関する最終的決定権」を支配しようと試みました。ここでサタンが敢えて神の「正邪に関する最終的決定権」及び「人間の生死に関する最終的決定権」に人類を挑戦させたということは、自ら神の排他的権限を保持し神に代わって絶対的な支配者たらんとする野心の表明でもありました。しかし、神は、サタンを阻止するために2名の「ケルビム”winged creatures”」と「回る炎のつるぎ」を配置して「命の木」への道を守らせます(創世記3章22-24節)。すなわち、神は、罪を犯した人間が自由に「命の木の実」を食べ続けて永遠に生きながらえさせないためにサタンも人間も「命の木」に接近できないように阻止する必要がありました。次に、神は、「善悪の知識の木の実」を食べて自ら正邪の基準を確立しようとした人間とサタンの誤りを証明し、自らの正当性を証明する必要がありました。
では、なぜアダムとエバは、神の事前の宣言通りに同日中に死ななかったのでしょうか?これには神の他の制度や基準および創造の目的をも考慮する必要があります。まず、神の制度下で禁令を犯し、罪を犯した知的被造物(天使たち)の結末は常に「死」のみだったと考えられます(ローマ6章23節)。したがって、過去において禁令を犯した、または自らの行為に対する正当な理由を示せない天使たちが神の裁きにおいて常に経験してきた現実は、「罪に対する寛大な赦し」ではなく、「罪に対する報いとしての絶対的な死」でした。そこで、アダムとエバの禁令違反に対してサタンを含めた天使たちが予測した神の裁きの選択肢は、2つ、有罪による死か、無罪による生かの2つに1つでした。
しかし、神は、予め「善悪の知識の木の実を食べても、それに触れても、同日中に死ぬ」と宣言されていましたから、結局、神が採り得る選択肢は、二人を原則通りに同日中に死に処することのみだったと解されます(“Heaven and earth may disappear. But I promise you not even a period orcomma will ever disappear from the Law. Everything written in it must happen.”「天地が消え去っても聖書に書かれた最も小さな一文字すら成し遂げられないということはあり得ない」の趣旨、マタイ5章18節)、例えば、格言「綸言汗の如し」、エステル書8章8節、「アハシュエロス(おそらく、クセルクセス1世)、『王の命令は取り消せない。』」)。
ところで、エゼキエル書28章1-19節によれば、蛇(サタン)は、高位の天使であるケルビムであり、エデンの園でアダムとエバの守護天使であったと考えられます。この記述は、一義的にはツロ(ティルス:レバノン南西部に位置するユネスコ世界遺産に指定された都市遺跡。当時はフェニキア人の都市国家)の王に宛てられた言葉ですが、二義的にはサタンに適用されると伝統的に理解されています。ここでは「あなたはエデンの園にあって・・・」(エゼキエル書28章13節)、「わたしはあなたを油そそがれた守護のケルブと一緒に置いた」(エゼキエル書28章14節)という表現に注目できます。同部分の日本語訳は重要な点が曖昧であるので標準英語訳を参照することにします。”You were in Eden, God’s garden・・・”「あなたは神の園であるエデンにいた」(エゼキエル書28章13節)、”You, a winged creature (cherub), are installed as a guardian・・・” 「(神は)・・・ケルビム(羽を持つ生き物)であるあなたは、守護者として任命された」(エゼキエル書28章14節)。すると、創世記の記述をより良く理解できます。すなわち、サタンは、エデンの園において最初の人間夫婦アダムとエバを守護する天使であったので、常時、人間夫婦アダムとエバの傍らにおり、彼らを最適の位置で観察できたということです。したがって、サタンは人間の性質を最も良く知ることができる立場におり、人間の構造上の弱点を理解した上で、最適時・最好機に人間に対する作戦に着手することができたと考えられます。
そこで、サタンが最初に妻であるエバにアプローチしたのは偶然ではなかったと考えられます。人間の男女関係の性質及び弱点を理解した上で最初に女エバにアプローチしたと考えるのが合理的です。すなわち、サタンは、女エバを介して男アダムにアプローチした方が作戦上有効であり、男を落とし易く一層容易に人間男女を神から離反させられると考えました(サタンはアダムのエバに対する慕情を利用した)。恐らくサタンに惑わされた妻エバと運命をともにして神の裁きを受ける覚悟で夫アダムはエバの与えた「善悪の知識の木の実」を食べたと考えられます。後に、パウロは、この点に関し、「・・・アダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した」(テモテ第一の手紙2章14節)と注釈しています(実際、サタンは、アダムとエバが別々にいる時にまずエバにアプローチし、決してアダムには直接話しかけませんでした。これはアダムに警戒させないためだったと考えられます。)
守護天使が反逆し、アダムとエバを惑わし、神から離反させようとしたのだから、二人の違反は不可抗力だったのではないかと主張する人々もいるかもしれません(仮にサタンがエデンの守護天使でなければ、他の守護天使がアダムとエバを守護しており、サタンがこの守護天使を排除してエバにアプローチして誘惑することは不可能だったことでしょう)。しかし、神が両者を問い質し弁明を求めた時に、両者は正当な弁明をできず、有罪意識から良心の呵責を感じていることを態度で明らかにしていましたから(創世記3章6-13節:裸を恥じて神から隠れるという行動は両者の良心の呵責を示唆しています)、両者が自ら有罪の意識を持っている以上(ローマ2章14-16節)、神にも両者を無罪とする理由はありませんでした。また、パウロも言及しているように(テモテ第一の手紙2章14節)、アダムはすべてを理解した上で自分の違反の道を選んだのですから、言い訳にはならなかったと思われます。
とはいえ、アダムとエバが処罰されて死ねば、両者を誘惑したサタンも処罰されてすべてが決着するから、サタンにはどのような作戦上の成算があったのかという疑問も生じ得ます。創世記では、創造の日は6日間で第7日目は安息日となっています(創世記1章・2章)。人間は、創造の第6日目に造られました(創世記1章27-31節)。そして、神は、「そのすべての作業を終わって第7日に」休まれました(創世記2章2-3節)。創世記の記述が前後しているので、時系列的に誤解されやすい点ですが、創世記2章15-25節の出来事は、創造の第6日目に起きたことです。というのは、創世記1章7節は、人間男女の創造を創造の第6日目としていますが、創世記2章15-25節の出来事は女の創造までに起きたことを記述しているから、女の創造が第6日目である以上、創世記2章15-25節の出来事は第6日と考えるのが合理的だからです。そこで、サタンの女に対するアプローチは、創造の第7日(安息日)の事件ということになります。
なぜサタンは創造の第6日目ではなく第7日目の安息日を作戦実施日に選んだのでしょうか?これを理解するには、まず創世記に描かれている一日が24時間の一日ではないことを理解する必要があります。実際、聖書中では1000年以上の長い期間を「日」と呼んでいる場合があります(ペテロ第二の手紙3章8節)。創造の1日間に起きている出来事の量を考慮すれば、24時間の一日間に起こり得ないことは明白です。例えば、創世記2章15-25節の出来事は、創造の第6日の最終部分で起きましたが、これらのすべてが24時間の1日のうちに起き得ないことは明白です。また、イエスは、自らを「安息日の主」と呼び、一世紀当時も未だ安息日(創造の第7日)中であったことを示唆しています(マルコ2章28節、ルカ6章5節)。ちなみに、創世記が言及する「創造の日」7日間は、地球上の「一定の時間的区分」であり、天の「時間的区分」ではありません。ですから、地球上の安息日であっても天を安息日として拘束する訳ではありません。
古代イスラエルでは、安息日にはいかなる労働も禁止されていました(出エジプト20章8-11節)。また、この掟は極めて厳格で安息日に労働する者は死刑に処せられました(出エジプト31章14-15節)。これは神の安息日に対する厳格な規律を示しています。ちなみに、パリサイ人が、安息日に病人を奇跡的に癒していたイエスに対して言いがかりを得ようと、「安息日に病気を癒すことは許されているか」と質問した時に、イエスは、「安息日に1匹の羊が穴に落ちているのに、これを助け出さない者がいるか。・・・安息日に良いことをするのは許されているのです。」(マタイ12章9-14節)と答えられました。これは、イエスがいかなる労働も禁止される安息日に人類を救済する活動を行うことが可能かという疑問に対して婉曲に答えたものです。
とはいえ、ここでイエスが「安息日に良いことをするのは許されている」と言われたからといって、「安息日に良い活動であればすべてが無制限に許容される」という意味に解することはできません。本来、神の支配する創造界では、「良いこと」しか許されないのは当然であり、「安息日に良い活動であればすべてが無制限に許容される」という意味に解すれば事実上無制限に活動を許容するのと同じ意味になってしまうからです。イエスが、「穴に落ちた羊を助けること」を例に挙げていることからすれば、緊急事態のみ対応可能であると解するのが合理的です。すなわち、もし安息日が明けるまで待てば、穴に落ちた羊は死んでしまう可能性が高いことから、たとえ安息日でも対応せざるを得ないことでしょう。ですから、イエスは決して神の安息日に対する厳格な規律を否定したのではありません。仮に安息日に人類を救済できないとすると人類は短期間の内に死に絶えてしまうかもしれません。
ところで、アダムとエバが罪を犯した時に未だ彼らには子供がいませんでした。もし仮にアダムとエバが罪に対する裁きを受け死んでしまえば、彼らの子孫は残らず、彼らから人類社会を形成するという神の目的は達成できません(創造の6日間に行われた神のすべての創造の業は、神の様に創造された人間がいなければ無意味に終わったことでしょう)。中には、「アダムとエバが裁かれて死んでも、神は新しい人間夫婦を造り彼らから人類社会を形成できるではないか」と安易に考える人々がいます。しかしながら、アダムとエバが罪を犯したのは創造の第7日「安息日」であり、新しい夫婦を創造し創造の第6日に行われた創世記2章15-25節の創造のプロセスを創造の第7日の安息日中に再開することは、既に述べたように、神の「安息日」に関する厳格な規律に反しました。なお、創造の7 日間は,日曜日が終わったら月曜日から再度繰り返される人間社会の1週間のように、安息日が終わったら再度創造の第1日目から繰り返されるのではなく、地球に関する創造の日は7日間が1回循環すれば永遠に再開されないと解するのが合理的です。
勿論、アダムとエバに子がいれば、その子から人類社会は存続し得ました。そこで、サタンが反逆計画を「安息日」に入った後にアダムとエバに子が生まれる前に作戦に着手することは、神の制度・基準および計画を理解した上で成算を見込んでのことであったと考えられます。すなわち、アダムとエバの間に子がいない以上、彼らを裁いて死に処して人類社会を断絶し、地球創造の目的を達成できないで終わらせるわけにはいかず、同時に「安息日」に創造の第6日目までに完了すべき創造のプロセスを再開できない神の厳格な「安息日」の規律を熟知した上で、サタンは自らの神に対する反逆計画を実行に移したと推定できます。実際、神は、当初、サタンを含む全天使が予想した第1の選択肢(アダムとエバを即日死に処すること)、第2の選択肢(アダムとエバを赦免すること)のいずれの選択肢も採れませんでした。すなわち、子のないアダムとエバを即日死に処せば、地球に関する神の創造の目的は中途で挫折し、一方、神の宣言と原則を破って二人を赦免すれば、知的被造物に対する神の規律を保てず、いずれの選択肢を採った場合にも神の絶対性は否定され、神は、自らを絶対支配者として維持することが困難になったことでしょう。結局、アダムとエバは、神が事前に宣言した通り、即日死なず、アダムは930歳まで生き、生きながらえて子孫を残し、彼らの子孫は人類社会を形成しました。思うに、サタンが反逆の野心の芽を創造の第1日に育んでいたとしても、実行に移すには創造の第7日目「安息日」に入った後、アダムとエバに子が生まれる前まで待つことが不可避であったことでしょう。
サタンの意図は、もう一つありました。アダムとエバが子孫を残す前に禁止された木の実を食べさせて二人を死なせれば、地球創造目的は達成されずに、地球創造目的の最高執行責任者である天使長ミカエルが失敗に対する責任を追及されることになることです。そうすれば、サタンは、天使長ミカエルを天使の最高位から失脚させ、最悪の場合には、天使長ミカエルを滅ぼすことが可能だったかもしれません。勿論、天使長ミカエルを罠にかけたサタンも無問責ということはあり得ないように思われます。では、サタンの動機と目的は何だったのでしょうか?
神は、最も信頼できる天使の1人として、サタンを最初の創造(Genesis)の最重要部分である最初の人間夫婦の守護天使に任命したと考えられます。しかし、それはサタンにとっては決して栄典ではなかったかもしれないということです。おそらく天でミカエル、ガブリエルに次ぐケルビム、第三位の天使であったサタンにとって、この微小な惑星・地球上でエデンの園の最初の人間夫婦を守護するという役割への配置は降格にも思えたかもしれないということです(エゼキエル書28章3節、12-17節、「あなたは、知恵に満ち、美の極みであった・・・あなたの心はその美しさのゆえに傲慢になった」という記述)。これは、例えば、明智光秀の能力を高く買った織田信長が、光秀の現領地である坂本を没収し未だ敵領地である石見等を新領地としたことが光秀に不信を抱かせ、光秀に信長に代わり天下を取る気にさせ、本能寺の変の端緒になったのに類似しています(これは日本の歴史ではありますが・・・)。おそらくサタンは、守護天使として人間を近くで観察して人間が天使たちよりも下等な生命体であることに気付いたと考えられます。例えば、ヘブライ2章7節によれば、人間は「天使たちよりも少し低い」と表現しています。また、ヨブ記1章2章では、サタンは、ヨブを含めた全人類を見下して人類の価値・倫理性を低く評価しています(もっとも、神も創世記3章19節で「汝塵なれば塵にかえるべきである」と人間の存在価値を低く評価しています)。これは、サタンが人間を利用して反逆に着手したこととも関連性があると思われます。すなわち、天使よりも格が低い下等な知的生命体である人間の守護天使に任命されたことが高位の天使であったサタンの誇りを傷つけたために、天使長ミカエルを罠にかけて神の創造の目的を挫折させ、神に報復しようと考えたのがサタンが反逆した端緒だったのかもしれません。
しかし、神は、天使もサタンも予測しなかった第3の選択肢を採りました。それは、自らの独り子・知的被造物の長子である天使長ミカエルを人間キリスト・イエスとして誕生させ、彼の死によりアダムの罪を贖わせることです(創世記3章15節、ヨハネ1章1-3節、ローマ3章23-25節、マタイ20章28節、黙示録12章7-9節)。キリスト教徒の信仰の中心となったのは、このキリストの贖いに対する信仰であり、キリストの贖いに対する信仰が唯一の救いの道であると信じられています(マタイ20章28節、テモテ第一の手紙2章5、6節、コロサイ1章14節)。すなわち、アダムとエバに子孫を残すことを許して人類の存続を図り、キリストの贖いを通して両者の罪を贖うという措置です。ここで、キリストの贖いとは、完全な人間としてのイエスが死によって自分の完全な子孫すべてを失い、代償としてアダムとエバの子孫である人類を救済するというものです。これは人類に対する神の憐れみの表明であり、そのおかげで現在人類は存在するとキリスト教徒は信じています。全人類の存続を図るために神が介入された場合としては、アダムとエバの場合に加えて、ノアの洪水の場合があります。ノアの洪水の場合にも、神は、ノアとその家族計8名(4夫婦、男女各4名)を箱舟にのせて生き残らせ、人類の存続を図りました。ちなみに、生き残った人類が4夫婦8名ということは偶然ではありません。4と8という数字は、聖書上では特別の意味を有しています。例えば、ケルビム4名、セラピム4名、合計8名が存在すること、等。それゆえ、ノアの洪水を生き残る者は、最初から不特定数ではなく、ノアの家族8名と決まっていました。「地に人を造ったことを後悔した」(創世記5章6-7節)神は、当初からノアの家族のみを救う意志であり、他の人類に生存の機会を与える意志はありませんでした。
ところで、憐れみはキリストの贖いを前提として成り立っていますから、キリストが贖いとして死ななければ、贖いは成立しないことになります。ですから、アダムとエバが子孫を残し人類の存続を図ることも、ノアの洪水をノアとその家族計8名が箱舟にのって生き残ったことも、将来にキリストが死によって贖いを備えることに成功することを前提条件としています。したがって、キリストが将来贖いのために死ななければ、神の憐れみはすべて過去に遡って無効になることになります。例えば、「ダヴィンチ・コード」という映画があります。これは、著名な壁画「最後の晩餐」でダ・ヴィンチは聖書では生涯を独身で終えたはずのイエス・キリストが、じつはマリア・マグダレネと呼ばれる女性と結婚をしており、磔にされたとき、彼女はキリストの子供を身ごもっていたという説に基づきます。しかし、キリストの死による全人類の贖いを前提に成り立つキリスト教にとって、イエスの子孫の存在は、キリスト教の存在意義そのものの否定になります。壁画「最後の晩餐」の中では、使徒の1人が刃物でマリア・マグダレネと思われる女性を脅してイエスに近づかせないようにしています。すなわち、レオナルド・ダヴィンチは、キリストの死による贖いがイエスの女性との結婚によって子孫が残されていれば無効になることを知っていたものと推測されます。ちなみに、当時、イスラエルの律法下では、婚外子をもうければ、石打ちによる死刑でした。勿論、キリスト教の教えでも、婚外子を設けることは罪です。イエスが使命を忘れて婚外子をもうけることは考えられません。
ところで、アダムとエバが人類存続のために子孫を残したことも、ノアの洪水をノアとその家族計8名が箱舟にのって生き残ったことも、逆説的に考えれば、それらがなければ神の創造の目的は中途で挫折して達成されなかったので、これらの事象は神の創造の目的達成にとって不可欠の事象とも言い得ます。すなわち、これらは、人間に対しては神による憐れみでも、神の側から見れば、創造の目的達成のための不可欠の事象でもあります。「ノアがいなければ、人類は絶滅したが、神の地球創造の目的も達成されなかった」等々。したがって、人間による神の憐れみの享受は、神の目的と整合する場合にのみ認められることになります。
もう少し論を進めると、神の創造の目的の最高執行責任者である天使長ミカエル(イエス・キリスト)は、アダムとエバが子孫を残さずに死に、又は洪水時にノアがいなければ、地球創造の目的が途中で挫折し最終的に達成されず、地球創造の目的が達成されないことに対する責任を追及されることになります。それは天使長ミカエル(イエス・キリスト)にとっては滅びを意味するかもしれません。このように神がアダムとエバに人類存続のために子孫を残させたことも、ノアの洪水でノアとその家族計8名を箱舟にのせて生き残らせたことも、その背後には、天使長ミカエル(イエス・キリスト)を地球創造の目的の不達成による責任追及から免れさせる意図があったとも考えられます。ただし、この第3の選択肢は、人類および天使を含む神の被造物に想像を絶する苦難の歴史を背負わせることになります。それは、人類の歴史を見れば明らかであり、天使の多数が神から離反してサタンの側に加担したことからも明らかです(黙示録12章3、4節、「星の3分の1」、星は天使を意味すると解される)。
このことは、トロイア戦争での王アガメムノンとイフゲニアを連想させます。トロイの王子バリスに王妃ヘレナを奪われた王アガメムノンは、トロイとの戦争にギリシャ兵を動員することを死地に赴くギリシャ兵に受け入れさせるために、娘イフゲニアを生贄として祭壇で女神アルテミスに捧げ犠牲にします。これは、被造物の長子である天使長ミカエルを人間キリスト・イエスとして贖いの犠牲にしたのに類似しています。単にアダムの罪を贖うことだけではなく、被造物の長子・天使長ミカエルを犠牲にすることにより全被造物に苦難を甘受させる効果もあったと考えられます。すなわち、天使長ミカエルさえ贖いの犠牲になったのであれば、全天使は納得して受け入れざるを得なかったからです。また、サタンの罠にかかった天使長ミカエルが神の目的達成のために極刑さえも甘んじて受け入れれば、天使長ミカエルはサタンの挑戦に回答し、サタンを滅ぼす理由にもなったはずです。
思うに、キリストが贖いの犠牲として極刑に処せられて死ぬということは、たとえそれが神の意志であったとしても、完全な人間の感性にとっては、不自然な要求だったはずです。けだし、「あいつ(最初の人間)が悪いことしたから、あなた(天使長ミカエル:イエス・キリスト)が代わりに罪を背負って死ね」という要求は完全な知的生命体の感性にとって自然であるとは思えません。また、完全な人間イエスの感性にとっては、女性といっしょになり子孫を産み家族を設けることこそ自然だったはずです。事実、イエスは、ゲッセマネの園で暴徒に捕縛される際にも(マタイ26章37-39節、42節)、ゴルゴダの丘で極刑に処されるときにも(マタイ27章46節)、苦悩を示しています。これは、天使長である自分が罪人として処刑される運命をイエスの感性が受け入れ難かったという葛藤に原因があると思われます。
イエス、さても、天使長ミカエル(イエス・キリスト)は、死に至るまでの神に対する忠節の結果として不滅性を付与され、彼には裁きによる滅びの可能性すらありません(ローマ6章9節、テモテ第一の手紙 6章15-16節)。すなわち、聖書は、目的達成を確実視し、キリスト教徒の信仰も目的達成が確実である点に置かれていますが、仮に天使長ミカエルが地球創造の目的の達成が不可能又は不十分と判断される状況に直面して失敗の責任を追及されても、不滅の天使である天使長ミカエル(イエス・キリスト)は裁きにより滅びないことになります。もっとも、キリストの死が無償の愛ではなく生存のための打算的な動機に基づくものであったら、すべての問題を決着する効果はなかったかもしれません(マタイ4章1-11節)。イエスがゲッセマネの園で暴徒に捕縛される際(マタイ26章37-39節、42節)及びゴルゴダの丘で極刑に処される際(マタイ27章46節)に示された苦悩は、イエスが打算的に死を受け入れたのではないことを証明しています。