数学者ラプラスは、『確率の解析的理論』1812年において、「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう」と主張しました。この理論を題材にしたのが東野圭吾の「ラプラスの魔女」という長編小説です。
一方、キリスト教神学やスコラ学は、「全てを知っており、未来も予見している知性」を「神」と呼び、「全知の神」と形容される場合があります。しかしながら、旧約聖書の最初の書である創世記から新約聖書の最後の書である黙示録まですべてを調べると神は必ずしも「全知」ではないということが理解できます。例えば、神は、エデンの園で守護天使であったサタン(天使名ではない)が最初の人間夫婦アダムとエバを巻き込んで反逆するのを予測できませんでしたし、ノアの洪水を引き起こすに際して、「地に人を造ったことを後悔」してノアの洪水で人類社会を一度終焉させており、人類社会の破滅的堕落を予測していませんでした。また、神に命じられたモーセが紅海を分けて奇跡的にエジプトから脱出させたイスラエル人は、不信仰ゆえに荒野で40年間彷徨います。すると、神は「全知」ではなく完全なる将来の予測をしてこなかったということになります。
中には神の予測能力は選択的であると主張する人々もいますが、選択するには選択すべき事実の内容を知らなければ選択できず、神の予測能力は制限的・選択的であるとする主張は「へりくつ」のようにも思えます。実際、神が予測の対象として選択していない事実には人類にとって決定的転換点となった出来事も多く、この主張には合理性があるとは思えません。
とはいえ、この点に関し、神の予測の性質が占い師(fortune teller)のように未来に起きる出来事を予め告知することではないことを念頭に置く必要があります。聖書中では、イエスは、神の予言に関して、事前に告知された未来の出来事を確実に実現する結果実現能力に基づくとされています(マタイ26章52-54節)。すなわち、神の予言は、占い師(fortune teller)の予言ように予め決まった未来を事前に告知するという性質のものではなく、事前に告知した未来を計画的かつ確実に実現する能力という意味です。換言すれば、神は因果律を支配してはいても、将来の因果律を完全に予測することはされないということです。聖書全巻を考察すると、神はご自分の目的や計画を実現するために必要な場合には因果律に干渉するが、普段は特に必要がない限り因果の流れに干渉しないということが理解されます。
ところで、聖書は、人が神のかたち(image)に造られたと述べています(創世記1章27、28節)。すなわち、神も、天使も、人間も、基本的に同質的な倫理観・価値観を有しているのかもしれません。とすれば、神も、人間と同様に予めすべての事実を知る未来を生きることは退屈であり、生きる価値がないとみなされるかもしれません。