一般的に、キリスト教徒は神が全知全能で誤謬性はなく弱点は全く存在しないと信じています。また、聖書中には神の預言者たちが行った多数の予言が記載されています。そして、キリスト教徒は一般的に神が全知全能で未来のすべてを完全に見通せるという信仰を抱いています。すなわち、信者たちは神が正確に未来を予言し確実にご自分の目的を実現すると信じています。しかし、神が未来をすべて見通せるはずなのに聖書中にはこの創造界を揺るがすような重大な事件が多数記述されています。神はこれらの事件を事前に予見し阻止することができなかったのでしょうか?
 
ゲッセマネの園で群衆がイエスを捕縛しようとやって来た時にペテロが剣で群衆に切りかかると、イエスは、「そのようなことをしたら必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されるか」と言ってペテロを止めます(マタイ26章47~55節)。すなわち、イエスは、神の予言能力が将来を完全に予知する能力(fortune telling)ではなく目的達成し結果を実現する能力であることを示唆しています。
 
このように解すると他の聖書の記述とも整合します。例えば、聖書中には神が事前に予知して予防的に介入されれば重大な事態が発生しなかったと思われる事例が幾つもあります。
 
例えば、エデンの園で最初の人間アダムとエバの守護天使は後にサタン(悪魔)となった天使でしたが、神は守護天使がアダムとエバを誘惑して神に背かせ、こうして人類に罪が入り悲劇的な結果となったことを予見しませんでした。仮に神が守護天使の異変に気付き事前に何らかの予防措置を取れれば、その後の悲劇はすべて起きなかったと考えられます(創世記第3章、エゼキエル書28章1~19節)。
 
神は、アベルの供え物を受け入れ、カインの供え物を拒絶し、カインの動機の悪さを叱責した時に、嫉妬したカインがアベルを殺害することを予見して防止措置を採りませんでした。そのために、優秀な遺伝的素質を持つアベルが劣悪な遺伝的素質を持つカインに殺害され、人類の潜在的、遺伝的、倫理的素質は劣悪となり、やがて人類社会は堕落して神は地上に人類を創造したことを後悔される結果となりました。仮にカインによるアベルの殺害が事前に予防されていたら神は堕落した人類社会に失望してノアの大洪水を引き起こす必要がなかった可能性があります(創世記4章1~17節)。

王二ムロデの下に人々はバベルに集合して住み、天に届くような巨大な塔(バベルの塔)を建て始めると、神は人々の言語を乱されました。言語を乱された人々はそれぞれの言語集団に別れて全地に散って行きました。しかしながら、各言語集団はそれぞれの国家を造り(各言語集団ごとに人種が分化し、国家が造られたものと推定される)、各国家は互いに闘争を始め、地上には残虐行為と流血が絶えなくなります。すなわち、人間の傲慢で野心的な神に対する挑戦はともかく、神が言語を乱した結果、地上には闘争と敵意と流血が満ちることになります。
 
モーセがエジプトのゴシェンの地で奴隷の状態にあったイスラエル民族を率いて出エジプトを行った際に、イスラエル人男子は強靭なカナン人戦士との戦闘を恐れてカナンの地に攻め入りませんでした。結果として、神は、彼らの不信仰を咎め、イスラエル人は約束の地に入れず40年間シナイの荒野を彷徨しました。しかし、エジプトで奴隷状態にあり戦闘訓練を受けたことがないイスラエル人男子が戦闘訓練を受けたカナン人戦士と戦うことを恐れるのは自然であり、神は当然生じるはずのイスラエル人の恐怖を予見しませんでした(奴隷であるイスラエル人の反抗を恐れたエジプト人がイスラエル人に戦闘訓練を許すはずはありませんでした)。同時に、ゴシェンの地で奴隷にしては衣食住が充実していたイスラエル人がシナイの荒野で「40年間マナだけを食べ、水すら不足する」状況に不平不満を抱くことも予見していませんでした(チャールトン・ヘストンがモーセを演ずる「十戒」というハリウッド映画の中では、ゴシェンの地のイスラエル人を過酷な扱いを受ける奴隷として描いていますが、これは同映画がアメリカの黒人奴隷を想定しているからで、エジプト奴隷としてのイスラエル人の処遇はアメリカの黒人奴隷ほど過酷ではなかったと考えられます。考古学上、歴史上の研究から、ローマ奴隷やエジプト奴隷は労働者と同程度の処遇であったと解され、それほど過酷ではなかったと考えられます:フィレモンへの手紙を参照のこと)。
 
思うに、神がご自分の計画に基づいて目的を完全に達成する能力は絶対的のように思われますが、個々の危機を予見し事前に予防するという点での危機管理能力は低いと考えられます。結果として、最終的な目的達成を実現するためにその過程で多くの悲劇を引き起こすことになっています。神は、予見しなかった結果の発生を修正するために強大な力を発揮し大虐殺により目的達成のために結果を修正する事態は聖書中で多々目撃するところです。