私は、京都の某法科大学院第一期既修者課程に2004年4月に入学し、約2年間在籍した経験があります。当時、旧司法試験制度で不合格を続けた受験生の蓄積が山積し、法科大学院第一期既修者課程の競争率は極端に高いものでした(それ以前はカナダのバンクーバー在住)。ところで、旧司法試験制度下では、大学法学部のみが存在し、司法試験受験生は司法試験の受験資格を得るためには大学教養課程で必要な単位さえ取得すれば良かったのですが、新司法試験制度下では、大学法学部と法科大学院が併存し、司法試験の受験には法科大学院修了が不可欠となりました(もっとも、「予備試験経由を除けば」の話ですが・・・)。確かに、従来から大学法学部は司法試験志望者のみではなく公務員試験や他の法律国家資格試験に対する受験者の需要にも応じてきました。また、法学部出身者の企業における需要も大きかったのです。
もっとも、法科大学院の創設は、日本と米国の法曹を同質化し日本を法化社会にしようと意図する米国政府の勧告に端を発します(最近まで米国大使館のホームページには当時の勧告が掲載されていました)。米国ロースクールに留学した経験を持つ法曹や学者たちが日本に法科大学院制度を導入することに同調し、積極的に日本政府に働きかけました(例えば、元ハーバード・ロー・スクール客員教授の柳田幸雄弁護士等)。これに対し、米国政府の勧告を鵜呑みにすることを潔しとしない日本国内の反対意見も強く、結局、大学法学部を残し法科大学院も導入するという併存案における妥協という結果を導きました。とはいえ、法科大学院の教授一般は、必ずしも日本政府による法科大学院創設の端緒が米国政府の勧告にあることを知っていたわけではないようです。私の属していた法科大学院の当時の副研究科長のお一人は、私が米国東部のメジャーな大学院出身のMAだと知ると、「アメリカの大学院出身者は傲慢じゃないか」と反感を示されました。米国に反感を抱く教授が日本と米国の法曹界の同質化を目的とする米国政府の勧告を実現する法科大学院の副研究科長に就任したのですから、いかにも摩訶不思議です。
なるほど、米国にもロースクール準備課程(pre-law sequence)が存在しますが、日本の大学法学部とは機能も性質も異なるものです。勿論、ロースクール準備課程(pre-law sequence)の卒業がロースクール進学の不可欠の条件ではありません。米国のロースクール制度は、専門教育はロースクールで行うことを前提としており、ロースクール準備課程(pre-law sequence)は法的素養を身に付けるための基礎能力を修得することを目的としています。世界に大学法学部(LLB課程)と法科大学院(JD課程)の併存する法曹教育制度を持つ国はほとんど見られません。通常は、大学法学部(LLB課程)か法科大学院(JD課程)かのいずれかを修了すれば、Bar Examination(司法試験)受験資格を得られます。
次に、法科大学院の創設により以前に比べて大学法学部の存在意義は薄れましたが、実際には大学法学部の教授が現在でも法科大学院の教授を兼任しているケースが非常に多く、結局、大学法学部の教授に司法試験受験者のプリ・スクリーニングを行う機会を与えることになっています(法務省と協議の上専門知識や学力以外の適性、思想及び性格等に関してプリスクリーニングの基準設定を行っている可能性すらある)。すなわち、各大学法学部及び法科大学院の教授たちは、自分たちの理想や関心に適合した人材を法曹界に送り込む機会を得たのです。そこで、今までは司法試験の対策及び学科の学習に専念すれば良かった司法試験受験生は教授との人間関係上のジレンマを経験することが避けられない事態となっています(実際に法科大学院の属する法学部からの受験者の合格、人間関係及び成績における優遇を示唆する指摘や統計もある)。これは、司法試験受験生が教授との人間関係をうまく乗り切らなければ司法試験受験資格すら得られないということを意味します。これは法科大学院生にとっては負担であり苦痛でもあります。なぜならば、教授の中には少数説を採っている者も多く学生が教授の採る小数説を教えられ、性格的にソリが合わない場合もあり得るからです(法科大学院の学者教授の中には旧司法試験択一式試験にすら合格していない方も多いし、研究対象や関心分野や得意分野が偏っている場合が多いのです)。場合によっては、これがアカデミック・ハラスメントやセクシャル・ハラスメントの一因にすらなり得ます。
司法試験受験生は、以前は教授との人間関係上の葛藤を経験せずに法律の学習だけに専念すれば司法試験に合格できたのですが、現在では教授との人間関係上の重荷をも負わされており、このジレンマを越えなければ司法試験に合格できないのです。また、法科大学院を含めて欧米の大学では定期的に学生に対するアンケート調査を行い、その結果に基づいて教授に対する評価を実施しており、この評価が教授の運命を左右すると言っても過言ではありません。これに対し、日本の法科大学院では、一応学生に対するアンケート調査を実施してはいますが、アンケートに基づく評価が教授の運命を左右することはほとんどありません。これは大学における民主主義の体質が欧米と日本では大きく異なるからです。すなわち、日本の大学における教授の地位は、江戸時代の儒学に基づく師弟関係に似ているので、学生は教授の任用に口を出せないのです。私自身の経験からすれば、教授に対する批判は逆に学生自身の運命を左右します。
ちなみに、時事通信によれば、「全国の法科大学院73校の2012年度入学者のうち、86%に当たる63校で定員を下回ったことが14日、文部科学省のまとめで分かった。定員割れは前年度より4校増加し、35校は定員充足率が50%未満だった。定員充足率が最も低かったのは神戸学院大(神戸市)の6%で、定員35人に対して入学者は2人だった。東北学院大(仙台市)が7%、駿河台大(東京都)が10%で続き、国立大で最も低かったのは新潟大(新潟市)の14%だった。全校の定員は前年度比87人減の4484人。入学者数は同470人減の3150人で、ピークだった06年度の54%に落ち込んだ。」(6月14日付)とのことです。なお、法務省発表によれば、2012年度の司法試験出願者数は11100人、受験者数は8387人です。どうも法科大学院の志願者数の減少には歯止めがかからないようで、既に法科大学院制度は破綻しているという法曹界の厳しい意見も多数あります。このままでは法科大学院制度そのものが廃止になる日もそれほど遠くはないように思われます。その場合には、法科大学院制度破綻の責任は誰にあり、新制度にどのように移行するのかが深刻な問題になります。
最後に、日本政府は、当初、日本社会を欧米と同質的な法化社会にする計画を立て、法律による国民の諸問題の解決及び法律サービスの社会への浸透のための法曹大量育成を目標として、法科大学院制度を導入しました。これは一般国民が自由かつ抵抗感なく諸法律サービスを利用し得ることを前提としていました。しかしながら、実際には日本は北米のような訴訟社会とは異質であり、一般国民が積極的に法律サービスを通して問題解決を図るという姿勢に乏しい社会であることから、日本政府の目論みは外れました。そもそも一般国民は、訴訟どころか裁判外紛争解決(ADR・Alternative Dispute Resolution)を利用することにすら消極的であり、自分たちの問題解決を積極的に法曹に委ねるほど法曹を信用してはおりません。これには裁判官や検察官等司法官僚が一般社会の経験則から乖離した経験則及び価値観に基づいて裁判を行う傾向があり、日本を法化社会にしても必ずしも日本社会が法的に安定することは言えないことにも一因があります。 敢えて言えば、裁判官や検察官は、自分たちが一般国民のだれよりも賢く、たとえ一般社会の経験則や価値観から乖離しても全日本を法的に正しい方向に導いていると信じているのです。現行司法試験は、2006年に始まり、新制度合格者の第一期司法研修は2007年に修了しました。ところが、最初の現行司法試験合格者の輩出から5年しか経過していないにもかかわらず、既に法曹界では弁護士の過剰・飽和状態及び就職難が叫ばれており、隣接法律職との業際問題も激化しています。なるほど日本の社会には大量育成された法曹を吸収する土壌はなく、既に法科大学院制度も破綻しつつあり、日本政府は社会の本質評価及び司法改革の見通しを誤ったと言えます。