英語修得(Acquisition)には、習慣形成(Habit Formation)が不可欠ですが、習慣形成(Habit Formation)は、当然、文化変容(Acculturation)を前提にしています。ですから、英訳に堪能になるには、英文法や英単語・英熟語の知識も必要ですが、英語の文化的背景を熟知することが最大の武器になる場合があります。すなわち、英文中には、単語の意味が理解できても、会話の文脈の中でそれが具体的に持つ意味を推定しなければならない場合が多々あります。
 
ところが、英語の初学者が英訳をする際に、まず行うのが英文中の単語に英和辞典に掲載されている意味から適当な意味を選んで逐語的にあてはめ、各単語の意味に整合性を持たせて和訳する方法です。しかしながら、常に念頭に置く必要があるのは、適切な英単語の意味が辞書に掲載されていない場合が頻繁にあるということです。そこで、英単語の意味を推定して最も近い日本語に訳出します。勿論、日本語の中に当該英単語の意味を正確に表す語彙が存在しない場合も多々あるので、元の英文と日本語訳の伝える意味は本来多少異なります。ですから、英訳する場合には、全く元の英文と同じ意味に訳そうとするのではなく、元の英文の意味をできるだけ正確に訳し、かつ日本語として自然な訳を選ぶ必要があります。これは英文和訳及び和文英訳のいずれにもあてはまりますが、和文英訳の場合には日本人が自然な英語表現を熟知していないことからネイティブ・チェックが必要となります。
 
ところで、007シリーズにショーン・コネリーがジェームス・ボンド役を演じた「007は2度死ぬ」という映画があります。その最初の場面に次のようなセリフがあります。
“Why are Chinese girls different from all other girls?”(Bond)
“Do you think we better?”(A Chinese girl)
“No, just different. Like Beijing duck is different from Russian caviar.”(Bond)
“Darling! I will give you the very best duck.”(The Chinese girl)
これは香港のホテルで中国人女性とジェームス・ボンドがベッドを伴にしている場面ですが、この直後にジェームス・ボンドは撃たれます。この部分を日本語に直訳すると、以下の通りです。
「どうして中国人の女は他のどの国の女とも違うんだ。」
「貴方は、私たち中国人の女の方がいいというの?」
「いや、そうじゃない。ちょうど北京ダックとロシアのキャビアが違うようにただ違うだけだ。」
「ダーリン!私は貴方に一番いいダックをあげるわ!」(この後にジェームズ・ボンドはマシンガンで撃たれる
 
ところで、最後の「ダーリン!私は貴方に一番いいダックをあげるわ!」は、「一番いいダック(一番魅力的な中国人の女=私)をあげるわ」で中国人女性がジェームズ・ボンドを誘惑しているセリフのようにも思えます。実際、当時のイギリス紳士にとって、最も魅力的な誘惑者(外国人の浮気相手)は中国人女性かロシア人女性でした。別作「ロシアより愛を込めて」の「From Russia with love, I fly to you・・・」の歌詞がこれをよく表しています。確かに第二義的にはそのような暗示も含んでいます。しかしながら、このセリフは、語呂合わせによる別の暗示を含んでいます。それが第一義的な意味です。それは、「DuckDark(暗闇、永遠の暗闇、死)」の暗示です。すなわち、「“the very best dark”をあげるわ」は「貴方を殺してあげるわ」の意味です。実際にその直後ジェームス・ボンドは撃たれます。「永遠の闇」を死と理解するのは、やはりキリスト教文化に由来します。キリスト教文化には「キリストに信仰を示す者の死」と「キリストの敵の死」の2種類があって、「キリストに信仰を示す者の死」は復活及び再生が約束される死を意味するのに対し、「キリストの敵の死」は「永遠の暗闇」(Perdition)を意味します。ですから、犯罪組織スペクターの宿敵であるイギリスの諜報員007・ジェームズ・ボンドには「キリストの敵の死」・「永遠の暗闇」を与えるという意味を含めたのです。
 
次に、日本の大学入試制度の下では「浪人」はごく自然な存在ですが、「浪人」を表す英単語は存在しません。浪人を英訳すると、“student who failed to get accepted at a university of his or her choice and is seeking another chance”又は“student who, having failed a school entrance examination of a particular year, is preparing for one next year”などとなります。これは欧米の大学に制度上浪人が存在しないからです。そもそも欧米の大学では、志望校に不合格で次年度再挑戦しても同志望校に合格する可能性はほとんどありません。浪人などというものは、再挑戦して合格する可能性がある制度下でのみ存在し得るのです。
 
このように英文和訳にも和文英訳にも相互の国の文化の壁が常に存在するということを念頭に置いて訳出する必要があります。