私は別に軍事の専門家でもマニアでもありませんが、旧日本軍の戦略・戦術に歴史的な関心があったのでレポートを書いてみました。
まず、日本軍の情報戦軽視に関してですが、これをソ連のスパイ・リヒャト・ゾルゲの場合との絡みで考察してみます。ゾルゲは、日本やドイツの動きを探るために外国通信社の東京特派員及びナチス党員とし1933年に日本に入国しました。その後、ゾルゲはドイツ大使オイゲン・オットの個人的な顧問として大使親展の機密情報に近づき、ドイツのソ連侵攻作戦(バルバロッサ作戦)の正確な開始日時を予めモスクワに報告しました。しかしながら、スターリンは、ゾルゲの情報を無視しました。結果として、ナチス・ドイツ軍の侵攻に対する準備をしていなかったソ連軍はバルバロッサ作戦の緒戦で大敗し、ドイツ軍がモスクワ郊外まで侵入するという苦境に陥りました。ところが、ゾルゲは、日本政府が1941年9月6日の御前会議で南方へ向かう「帝国国策遂行要領」を決定したという情報を近衛内閣や軍部中枢に情報網を持つ尾崎秀実経由で入手し、それを同10月4日にソ連本国へ打電しました。その結果、今度はゾルゲ情報を信用したスターリンは、日本軍の侵攻に対処するためにソ満国境に配備した冬季装備の充実した精鋭機甲部隊をモスクワ全面に移動させ(30個師団・50万人)、モスクワ郊外に迫ったドイツ軍を撃退しモスクワ攻略を失敗させました。ゾルゲによる情報提供が10月初旬でドイツ軍のモスクワ全面からの撤退開始が12月初旬であることを考えれば、ソ連軍には将に危機一髪、ゾルゲ情報は起死回生であったと言えます。現在でもモスクワ郊外にドイツ軍の偵察隊が建てた「モスクワまで23キロ」の碑があることを考えれば、これは実に真実味があります。一スパイの情報が戦争の大局を変えたのです。
一方、日本が御前会議で南方へ向かう「帝国国策遂行要領」を決定した最大の原因の1つに情報不足があります。日本軍は、1939年5月から9月にかけてノモンハンでソ連軍と軍事衝突し、最終的には停戦しましたが、当時の日本軍部は戦局情報の不足から関東軍がソ連軍に大敗したと評価していました。そこで、日本軍首脳部は北に向かい、ソ連軍と対峙することには極めて消極的でした(実際には西欧諸国の軍事専門家筋も一般に日本軍の大敗と評価していました)。しかしながら、1990年代の冷戦終結後公表された旧ソ連軍の記録によると、両軍の損害はほぼ拮抗していました(日ソ両軍の戦死者数はともに約8000名前後)。なぜならば、1939年当時、極東ソ連軍にはT-34やKV-1型などの独ソ戦で活躍した優秀な戦車は未だ配備されていなかったからです。その後、日本はソ連と日ソ中立条約を締結し、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結したが、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を一方的に破り、ソ連に侵攻しました。にもかかわらず、日本は、日ソ中立条約を破ることをよしとせずにシベリアからのソ連侵攻には二の足を踏みました。日本はヒトラーの要請を拒否して結局シベリアからは侵攻しませんでした。確かに日本の決断は国際信義及びモラルの点からは正しいのかもしれませんが、後にソ連軍が一方的に日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻したことにより裏目に出ました(1941年に締結された日ソ中立条約は有効期間が5年間であり1945年当時未だに有効でした)。何よりもソ連がゾルゲ・尾崎を介して日本の内閣・軍部の中枢にも強力な情報網を有していたのに対して、日本はソ連及び欧米諸国に対して何ら有効な情報網及び諜報戦略も有していませんでした(日本政府の外交筋は、ドイツによる独ソ不可侵条約の破棄及びソ連侵攻は全く予想していませんでしたし、ソ連侵攻はバトル・オブ・ブリテン(英本土航空戦)に敗れたヒトラーが国民の関心を敗戦から逸らすための新たな目標として設定したことも知りませんでした)。
確かにヒトラーは1941年の夏場に一時モスクワ進行を中止してキエフ攻略を優先し、中央軍集団に南部軍集団を援護させるために南部に転進させ、作戦ミスを犯しました。しかしながら、日本の機密が漏れずに、あるいはシベリア方面の日本軍が陽動作戦を採る等の機転を利かせていれば、スターリンは極東ソ連軍をモスクワ前面に移動できず、ドイツ軍はモスクワを攻略していた可能性が高いのです。ここに当時の日本政府及び日本軍の情報戦軽視及び三国同盟の軍事同盟としての形骸化を見ることができます。
さらに悪いことに、日本軍は、ヒトラーがアメリカのヨーロッパ戦線への参戦を1943年以降と予測していたのに、1941年12月8日にハワイのオアフ島パールハーバーを奇襲攻撃することにより自らがアメリカに宣戦布告するのと同時にヒトラーのアメリカに対する宣戦布告をも誘発してしまいました。実際には日独伊三国同盟は、軍事同盟としては形骸化していてのですが、ヒトラーは外交上アメリカに宣戦を布告せざるを得なかったからです。これにより、アメリカはヨーロッパ戦線への軍事介入が可能になりました。それだけではなく、パールハーバー奇襲以前には厭戦気分であったアメリカの世論を一気に参戦志向に変えてしまいました。結局、情報戦軽視による情報不足から戦局判断を誤って南進した日本軍は、その後の世界情勢の動向を大きく見誤ります。