聖書の神といえば、キリスト教徒が思い起こすのは、「全宇宙の創造者」「全知全能」「唯一神」という定義です。しかしながら、これらの定義を端的に聖書全巻の解釈から導き出すことができるでしょうか?
 
まず、考えなければならないのは、最後に書かれた聖書の聖典である「ヨハネの黙示録」は、西暦96年頃、使徒ヨハネによってパトモス島(エーゲ海の小島)で書かれました。そこで、「創世記」から「ヨハネの黙示録」の及ぶ聖書全巻は、千数百年をかけて完成されたことになります。この聖書全巻を通して神は全能かつ永遠の存在なる「天」の支配者として描かれています。しかしながら、「天」とは何を意味するのでしょうか?
 
基本的に聖書中での「天」は3つの意味で用いられたと考えられます。まず、一般に人が見上げる「空」、次に、天体から構成される「宇宙」、三番目に神や天使たちの住む霊の世界である「天」です。パウロは、第三番目の「第三の天」に関して言及しています(コリント第二 12章2節)。勿論、私たちは、天体から構成される「宇宙」なる「第二の天」を理解するに際しても、聖書が書かれた当時の人々の時代背景及び科学水準を考慮しなければなりません。ある聖書研究者たちは、現在の天文学の新発見を基準に現代の宇宙観で聖書が言及する「天」を理解しようとする過ちを犯しています。仮に聖書の神なる存在が宇宙に関する高度かつ正確な科学的知識を有していたとしても、教えを受けているのは数千年前に生きる当時の人間です。神がその知識や理解の限界を超えたことを語っても無意味でありましょう。
 
イザヤ書40章26節は、「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。」と記し、また、詩篇147編4節は、「主はもろもろの星の数を定め、すべてそれに名を与えられる。」と記されています。すなわち、日本語の文理解釈に従えば、「すべての星を創造したのは神で、神はそれらのすべてに名を与えておられる」という意味に読めます。そこで、あるキリスト教徒たちは、両方の聖書の言葉から聖書の神が「全宇宙の創造者」であるという理解を導き出します。一方、この点に関して英訳聖書(Common English Version)を参照すると以下の通りになります。”Look at the evening sky! Who created the stars? Who gave them each a name? Who leads them like an army?”(イザヤ書40:26)、”He decided how many stars there would be in the sky and gave each one a name.”(詩篇147編4節)。”・・・created the stars”、” He decided how many stars there would be in the sky and gave each one a name.”と記されていますから、英訳でも「・・・神が星を創造しそれらに名前を付けた・・・」という意味に理解できます。ところで、詩篇はほとんどが古代イスラエル王国の第2代目の王ダビデによって作られたと言われていますから、宇宙観及び天体の知識に関しては、先述したように、イザヤやダビデの科学的知識と宇宙観を基準に考える必要があります。
 
ところで、1608年、ガリレオは、天体望遠鏡を発明して木星の4大衛星を観測しました(彼は地動説の支持者)。また、16世紀のカトリック司祭コペルニクスは、天動説に反対して地動説を唱え、地球が太陽の周りを回っていると主張しました。
 
しかしながら、コペルニクスが最初の地動説主張者ではありません。紀元前300年前後の古代ギリシャのアリスタルコスは、地動説を唱えていました。そして、紀元前3世紀頃のギリシャ人学者エラストテネスは、地球球体説を唱え、実験で地球が球体であること証明しました。古代ギリシャにおいては地球が球体であることが既に知られていたとされていますが、最初に地球球体説を主張したのはピュタゴラスという紀元前6世紀のギリシャ哲学者です。とはいえ、ダビデ王は紀元前10世紀以前に生きていましたから、彼らよりもはるかに昔の人物です。また、イザヤは紀元前8世紀のイスラエルの預言者です。ですから、神がダビデ王やイザヤに宇宙の真実の姿を詳説しても、ダビデ王やイザヤにはそれを理解する基本的素養や宇宙観はなかったと考えるのが自然でしょう。後に、イエスは、ユダヤ人の指導者二コデモに対し、「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。」(ヨハネ3:12)言っておられますが、ダビデやイザヤにも同様のことが言えます。仮に神がダビデやイザヤに真実の宇宙の姿を詳説したところで、やはりダビデやイザヤにもそれは理解できないでしょう。確かに地球が球体で宇宙空間に存在するという聖書の字義的解釈をする聖書研究者もいますが、たとえそうだとしてもこの場合の結論に変わりはないでしょう。
 
すなわち、イザヤ書40章26節及び詩篇147編4節は、”stars”(恒星)に言及していますが、”planet”(惑星), nebula(星雲)、”galaxy(銀河)には言及していません。勿論、これは当時のヘブライ語の原語上、”stars”(恒星)、”planet”(惑星), nebula(星雲)及び”galaxy(銀河)を区別して表す単語が存在していなかったことを意味します。結局、神は、ダビデやイザヤに”stars”(恒星)、”planet”(惑星), nebula(星雲)及び”galaxy(銀河)を区別させる意図はなく、天空の光る天体を総体的に”stars”(星)として言及されていたことになります。ちなみに、”nebula(星雲)や”galaxy(銀河)は、明らかに”stars”(恒星)や”planet”(惑星)と可視的に異なった外観を有し肉眼では一定の広がりを持つ光芒のように見えますから、仮にイザヤ書40章26節及び詩篇147編4節の”stars”(恒星)が”planet”(惑星)を含めて定義されていたとしても、”nebula(星雲)や”galaxy(銀河)が同定義に含まれたとは考えられません。当時の人々には一般的に”nebula(星雲)や”galaxy(銀河)がいわゆる”stars”(星)であるという認識はなかったものと考えるのが自然です。
 
ところで、ダビデがいた北半球で最も明るい”galaxy(銀河)は、アンドロメダ銀河(M31)ですが、+4.3等級で双眼鏡を使って「長楕円形の光芒」に映る程度です。なお、大小マゼラン雲も肉眼で見えますが、南半球でのみ見え、ダビデのいた北半球では見えません(肉眼で見える銀河系外天体は3個のみです)。また、肉眼で見える最も暗い恒星は6等級ですが、全天に肉眼で見える恒星は約6000個あり、距離にしておおよそ太陽を中心にした5000光年の範囲内に限定されます(さそり座イオタ星が距離5000光年程度で可視恒星では最遠のようです)。したがって、イザヤ書40章26節及び詩篇147編4節において、「神が創造され、数を数えられ、それぞれの名前を呼ばれる(星々)」は銀河系外に及ぶどころか太陽を中心におおよそ5000光年の範囲内に存在することになります。そこで、イザヤ書40章26節及び詩篇147編4節の記述のみから聖書の神が全宇宙の創造者であるという結論を導き出すことにはかなり無理があります。なお、現在の天文学では、宇宙の広がりは太陽を中心に±138億光年(宇宙の地平線)であり、大宇宙は、銀河、銀河団、フィラメント構造、超銀河団、泡状構造で構成されることが発見されています。そして、恒星の総数は宇宙の地平線までの範囲で300垓(300×1020)以上あると推定されます(億、兆、京、垓・・・:天の川銀河を構成する恒星数は約2000億:現在までに観測可能である宇宙の地平線の外にも天体が存在する可能性は否定できません)
 
さて、多くのキリスト教徒は、一般的に、神は全宇宙に地球と同じような知的生命体の住む惑星を無数に創造されたと信じています。勿論、天文学者は、全宇宙に地球と同じような知的生命体の住む惑星が無数に存在すると推定します(ドレイク方程式)。では、聖書から神が地球以外にも知的生命体の住む惑星を創造されたと結論付けることが可能でしょうか?(地球以外の創世”genesis)。結論から言えば、かなり否定的です。
 
まず、創世記の中で地球以外の創造に言及していると解される部分は、創世記1章1節の「はじめに神は天と地とを創造された。」という部分だけです(この部分の「天」は”the heavens”と複数になっていますが、それは第一の天=空、第二の天=宇宙、第三の天(コリント第二 12:2)=神や天使たちの住む霊界の天の複数の天を意味するからであると考えられます)。その後、同2節からは、直ちに地球の創造及び創造の7日間に視点が移っています。そもそも、創世記を記したのは、モーセと言われていますが、創世記部分は口伝伝承をモーセがまとめたと理解されています。したがって、そのような超古代の人々に太陽を中心に±138億光年の広がりを持つ大宇宙構造のことを前提にした広大な宇宙論を展開しても全く意味はなく、神は、地上にいる人間の素朴な視点、観察及び視覚から理解し得る範囲の「天と地」を示したと考えるのが合理的です。そもそも聖書が人間に与えられた「失楽園から復楽園に至る人類の救済」という目的からすれば、大宇宙構造を人類に理解させることは全くの無意味かつ不必要なことでありましょう。そして、注目すべきことに創造の第一日から第六日までの創造”creation”において、神(創造者)は、惑星地球も太陽もその他の天体も創造されてはいません(これを最適に表現する言葉は「テラフォーミング」であるかもしれません)。惑星地球も太陽もその他の天体も創造の第一日以前に創造されたのであり、このことから“Genesis”を「天地創造」と和訳するのは正確とは言えません。惑星地球も太陽もその他の天体の創造は、すべて創世記1章1節の「はじめに神は天と地とを創造された。」に含まれているので詳細は不明です。
 
確かに、現在の天文学で発見された太陽を中心にした±138億光年の大宇宙の広がりの中に銀河、銀河団、フィラメント構造、超銀河団、宇宙の泡状構造等同質的な構造物があることを考えれば、何か同一の創造者によってこれらのすべてのものが創造されたのではないかという印象を受けるかもしれません。もしかしたら地球の創造者の上位にさらに全宇宙の創造者なる存在があるのかもしれません(creatororiginator)。勿論、神の絶対性を冒しますから、キリスト教徒はこのような見解を決して採りません。しかしながら、宇宙的規模で客観的に見れば、地球は、天の川銀河の中心から約2万8千光年に位置するオリオン腕最辺境の太陽という淡黄色の中等程度のあまり目立たない恒星系の第3惑星です。そして、NASA(アメリカ航空宇宙局)は、天の川銀河はアンドロメダ銀河に約40億年後に合併・吸収されてしまい、天の川銀河そのものが存在しなくなるとの予測を立てています(アンドロメダ銀河は、天の川銀河の約4倍以上も規模の大きな銀河であり、天の川銀河がアンドロメダ銀河に合併・吸収されてしまうというのが正しい表現でしょう)。スペクトル分析によれば、アンドロメダ銀河のスペクトルは「青方偏移」であり、ドップラー効果からアンドロメダ銀河は天の川銀河に接近していると観測されます(相互の重力加速なので今後も両者の接近速度は加速し続ける)。したがって、天体観測の結果は、決して地球の創造者の地位を絶対的ならしめるものではなく、むしろその限界を証明するものとも言えます。畢竟、信仰者の神に対する絶対観が最新科学の発見した全宇宙の姿に依拠する「全宇宙の創造者観」を「聖書の神=地球の創造者」をさらに「=全宇宙の創造者」に押し上げたものと理解されます。すなわち、聖書中の「天」は数千年前に定義された「天」のままにして人間の天文学的新発見と宇宙観の変化に伴い、その「天」の規模や内容が変わってしまったと言わざるをえません。
 
次に、地球の年齢は、約45億年程度とされていますが、大宇宙の創成は±138億光年とされており、両者にはあまりにも大きな時間的ギャップがあります。そこで、神は、地球の創造以前にも全宇宙に渡り地球と同じような知的生命体の住む惑星を無数に創造されたと考えるキリスト教徒も多数おります。しかしながら、以下のようにこの理解に聖書全巻は否定的です。
(1) 既に述べたように、創世記中で地球以外の天体に言及されていると理解し得る部分は、創世記1章1節の「はじめに神は天と地とを創造された。」という部分の「天」だけであり、聖書全巻を通じて地球以前に地球以外に知的生命体の存在する惑星が創造されたことを示唆する記述は全くありません。
(2) コロサイ書1章15~17節は、「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。」と記しており、キリスト・イエスがこの創造界で最初の被造物であったことに言及しています(ヨハネ1:1~3参照)。ところで、天においてイエスは天使長ミカエルであったと理解されます(黙示録12:7~9)。創世記から黙示録まで一貫して、ヘビ=龍=サタンVS.女の胤=キリスト=天使長ミカエル=神の初子という敵対構造が一貫して存在します。創世記3章15節は、やがて女の胤(キリスト)が蛇の頭を砕くと述べており、黙示録12:7~9のサタンを天から追放するミカエルは、キリストであると解されます。この最初に創造された天使ミカエルと反逆した守護天使サタンの対立は、聖書中では、「天(神の住まう第三の天)」と「地(地球)」のみを舞台としており、それ以外の天体の知的生命体を巻き込んではいません。それが証拠に天の戦いに敗れたサタンと配下の天使たちはすべて「地(地球)」に追放され全宇宙には分散していません(黙示録12章9節)。これは神が地球以外に知的生命体の存在する惑星を創造されなかった証拠とも言えます。
(3)キリストとなった天使長ミカエルの天における役割に重要性から考えて、あまりにもその活動と関心が地球に偏重しすぎています。全宇宙の天使長であれば、仮に全宇宙に無数の知的生命体の存在する惑星があるとした場合、その関心や活動を地球に偏重かつ集中させることは不可能でしょう。当然、他の惑星に対する配慮も必要ですし、偏重すれば不公平との非難も免れないでしょう。にもかかわらず、天使長ミカエルは人間キリスト・イエスとして地上におり、30年間以上も天を空けられています。同時に、マタイ25章31節は、「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。」とイエスがすべての天使を従えて地球に臨在することに言及しており、仮に地球以外に地球と同様な知的生命体の存在する惑星が無数にあれば、全天使が地球に集結することなどは不可能でしょう。
(4) 最後に、最初の人間夫婦を巻き込んだサタンによる神に対する反逆がこの創造界で起きた最初の反逆であったとするのが聖書全巻の趣旨であると理解されることから、地球以前に地球以外に地球と同じような知的生命体の存在する惑星が「聖書の神」により創造されたと理解することは不合理であります。
 
さらに、神の「全知全能」に関し、キリスト教徒の多くは、文字通り神はすべての知識を有し不可能なことはないと考えます。この点に関し、聖書は、「神には、なんでもできないことはありません」(ルカ1:37)及び「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ10:27)と言及しています。しかしながら、これは神にとっては無制限にすべてのことが可能であるという意味に理解するべきでしょうか?
 
この点に関し、神の能力に限界があると理解することが聖書とも整合するようです。例えば、イエスは、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう・・・」(マタイ17:20,21)と述べておられます。しかしながら、勿論、いかに文理上「不可能はない」という表現を使っているとしても、「からしの種一粒ほどの信仰がある」人間には、信仰次第で物理的にすべてのことが可能であり不可能はないという意味に理解することはできません。この言葉は、イエスが比喩的に使った表現であり、文理を額面通りに解釈することはできません。ですから、「不可能なことはない」という表現は相対的に解釈するべきです(ルカ書1章37節)。すなわち、神は不可能な目的や宣言を行わないが、一端宣言された目的に縛られる範囲内では当然不可能なこともありますし、制度上不可能なこともあるでしょう。例えば、キリスト教徒の中には、神はサタンの反逆を事前に防げなかったのかと考える者たちが多々います。しかしながら、神が最も信頼したはずの任命された守護天使が反逆した場合、神にもそれを事前に防ぐ方法はなかったと考えるのが合理的です。すなわち、サタンが最も信頼された守護天使であった以上、彼が究極的な”stopper”であり、”stopper”に対する”stopper”を想定するのは無意味です。そうなれば、神は誰をも信頼できずいかなる任務を与えられなくなるからです。
 
ここから、神の「全知全能」の「全知」という部分に関して、「神にとってはすべての因果律は定まっており、将来のすべての予定された出来事を神はご存知である」という意味には理解できないことになります。聖書は、「神が悔いることはない」(民数記略23:19)と記します。この部分の英訳は、"not change his mind"となっており、英語文理上は「神は後悔しない」ではなく「神は一度決定した計画や目的は変更しない」の意味に理解され得ます。ノアの時代に神は人を創造したことを後悔されます(創世記6章5節~7節)。しかしながら、神はノアとその家族をもって人類の存続を図り創造の目的を放棄されませんでした。同様に、アケメネス朝ペルシャの王アハシュエロス王(クセルクセス1世と解される)は「王の正式文書による命令は取り消せない」(エステル書8章8節)と言っています(参考までに、日本にも「綸言汗のごとし」という格言があります)。
 
なお、神の「予言」の性質を考える場合に、自由予想結果実現の2面があることを知る必要があります。すなわち、「自由予想」は、未来に起きることの結果を正確に予想すること、「結果実現」は、目的に従って予言したことを結果として実現することです。聖書は、神の「予言」が主に後者の「結果実現」であることを示唆しています。この点に関し、マタイ26章53、54節は、裏切者ユダ・イスカリオテがイエスを捕縛するための武器を持った大群衆を連れて来た時に、ペテロが剣を持って彼らと闘いイエスを守ろうとすると、イエスが「それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」と述べて、ペテロを止めたことが記されています。すなわち、イエスは、イエスがユダヤ人に捕われ殺されることは人類に対する贖いを備えるための予言の成就であり、たとえ阻止できても阻止してはならないという意味でこのように言われています。これは「神の目的」、「神の全能性」、「予言」及び「予言の結果実現」の間に相関関係があることを示唆しています。
 
ところで、神は、永遠の過去から永遠の未来に渡り存在し無限に生き続けていると考える人々がいます。その根拠として「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」という黙示録22章13節を引用します。まず、「永遠」≠「無限」であることを認識する必要があります。「永遠」も相対的な概念であり、無限と同義ではありません。伝道の書1章4節は、「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らないbut the earth remains forever.」と述べますが、私たちは、銀河系も、太陽も、地球も、無限に存在するのではなく、いずれ消滅する時が来ることを天文学から知っています。なぜならば、地球が無限に存在し続けるには地球が公転する太陽も無限に存在しなければならず、太陽が無限に存在し続けるには太陽がその一部である天の川銀河も無限に存在し続けなければならず・・・という無限のパラドクス”paradox”に陥ってしまうからです。地球の運命が観測される宇宙の諸天体と異なると考える合理的理由はありません。黙示録22章13節を文理通りに解釈すれば、神は、自らが「最初の者であり最後の者である」と述べていることから自らには「最初」も「最後」もあり、永遠の過去から永遠の未来に渡り存在し無限に存在し続けているとは述べておられません。これは、創造者であれば、被造物のいずれよりも前から存在し後まで存在するという当然のことを意味しているにすぎないと理解されます。同時に、「至高の神」や「唯一の神」という表現も、神自身の創造界においては「より偉大な者が存在しない至高の存在」「他に創造者はいない」等神にとっては当然の表現であると考えます。
 
神の支配は極めて現実的であると言えます(日本国憲法第9条の戦力不保持は非現実的です。それゆえに常に解釈合憲等の矛盾が生じます)。なぜならば、神自身が軍事力なしには自分の支配の維持は不可能であることを認めているからです。神は自分の支配と秩序を維持するために強大な軍事力を保有しています。聖書中の「回る炎の剣」(人が剣を持つ以前に天には剣があったのか?)、「12軍団以上の天使」等の表現はそのことを示しています(ユダの手紙1:14,15、黙示録12:7~9)。この点をより良く理解し得る表現を旧日本語欽定訳に発見できます。例えば、「万軍の神」「主は聖なる巨万の軍を率いて裁きを下すために来られる」等。