私たちは、サタン又は悪魔というと頭に角があり先鋭な尾がある鬼のような存在として描かれている宗教画を思い起こします。例えば、「ダンテの神曲」の中には、地獄の最下層には氷に永遠に幽閉されたルキフェル(サタン)が醜悪な怪物として描写されています。これは中世に形成されたサタン又は悪魔のイメージですが、聖書中では、サタン又は悪魔は神に反逆した天使として描かれています。なお、「ダンテの神曲」が言うように、サタンが堕落した天使長であるということに言及する記述は聖書中には全く存在しません。字義的には、サタンはヘブライ語で「神の敵」「神を訴える者」を意味し、悪魔は「中傷する者」を意味します。
ちなみに、サタンと悪魔は別の存在であり、悪魔は多数存在して「悪魔族」なるものがあるように考え、1個体の悪魔の名前が「サタン」であるかのように理解する見解は聖書の誤った解釈です。すなわち、聖書中では、サタン=悪魔であり、反逆した多数の天使たちの支配者がサタン又は悪魔です(黙示録12:7,8)。この点関し、イエスは、サタンのことを「悪霊たち(反逆した天使たち)の支配者」と呼び、サタンが反逆した天使たちを束ねて統一王国を建設していると述べています(マタイ12:24-26、「この世の神」コリントII 4:4)。また、サタン自身も、自分が全世界の王国に対する権力を保持しており、全世界の王国の「権威と栄華」を「だれでも好きな人」に与えることができるから、イエスが自分を崇拝すれば、代償として「これらの国々の権威と栄華」を与えると言っています(ルカ4:5-7、黙示録13:7)。すなわち、サタンは全世界に対して強大な政治的影響力を駆使できる地位にあります(黙示録13:1-2参照)。
ところで、サタンの反逆は何時どこで始まったのでしょうか?聖書によれば、それはエデンの園において人間の最初の夫婦を誘惑して神に叛かせた時に始まりました。創世記第3章では、蛇が人間最初の女エバを誘惑する場面が出てきます(創世記3:1-6)。ここで蛇がサタン又は悪魔であることには異論もありますが、黙示録12章9節を見れば、龍=へび=悪魔=サタンであることを理解できます。神は、最初の人間夫婦アダムとエバに「善悪の知識の木の実をたべてはならない。もしその木の実を食べれば死ぬ」との禁令を与えられました(創世記2:16-17)。これに対し、サタンは、エバを誘惑し、「善悪の知識の木」の実を食べさせます。その後、エバは、夫アダムに「善悪の知識の木」の実を与え、彼もこれを食べます。
エデンには象徴的な木が2つありました。1つは「善悪の知識の木」、もう1つは「命の木」です。ここで明らかに「善悪の知識の木」は神の正邪に関する最終的決定権を、「命の木」は人間の生死に関する最終的決定権を象徴的に現わしていました。勿論、文字通りに、「善悪の知識の木」の実が人間に正邪の判断能力を与え、「命の木」の実が人間を不老不死にする化学的組成を有していたわけではありません。これらは神の排他的権限の象徴でした。すなわち、サタンが神の「善悪の知識の木の実をたべてはならない。もしその木の実を食べれば死ぬ」との禁令に反する「その木の実を食べても死なない」という助言を人間の女に与えたことは、最初の人間夫婦アダムとエバを誘惑して神の排他的な「正邪に関する最終的決定権」及び「人間の生死に関する最終的決定権」を否定し、同時に人間夫婦を自分の側に与して神の排他的権限に挑戦するように仕向けたと言えます。結果として、アダムとエバは、神の「正邪に関する最終的決定権」及び「人間の生死に関する最終的決定権」を否認し、自ら「正邪に関する決定権」及び「人間の生死に関する最終的決定権」を支配しようと試みました。ここでサタンが敢えて神の「正邪に関する最終的決定権」及び「人間の生死に関する最終的決定権」に人類を挑戦させたということは、自ら神の排他的権限を保持し神に代わって絶対的な支配者たらんとする野心の表明でした。
しかしながら、サタンは、どのようにしてアダムとエバに接近して誰にも邪魔されることなく、自分の作戦を遂行し得たのでしょうか?この質問に対する解答の糸口は、エゼキエル書28章1-19節に発見できます。この部分は、一義的にはツロ(ティルス:レバノン南西部に位置するユネスコ世界遺産に指定された都市遺跡。当時はフェニキア人の都市国家)の王に宛てられた言葉ですが、二義的にはサタンに宛てられていると伝統的に理解されています。ここでは「あなたはエデンの園にあって・・・」(エゼキエル書28章13節)、「わたしはあなたを油そそがれた守護のケルブと一緒に置いた」(エゼキエル書28章14節)という表現に注目できます。同部分の日本語訳は重要な点が曖昧であるので標準英語訳を参照することにします。”You were in Eden, God’s garden・・・”「あなたは神の園であるエデンにいた」(エゼキエル書28章13節)、”You, a winged creature (cherub), were installed as a guardian・・・”
「(神は)・・・ケルビム(羽を持つ生き物)であるあなたは、守護者として任命された」(エゼキエル書28章14節)。これらから理解できることは、サタンは、エデンの園において人間を保護する高い地位にある守護天使であったと推定できます。すると、創世記の記述をより良く理解できます。すなわち、サタンは、エデンの園において最初の人間夫婦アダムとエバを守護する天使であったので、常時、人間夫婦アダムとエバの傍らにおり、彼らを最適の位置で観察できたということです。したがって、サタンは人間の性質を最も良く知ることができる立場におり、人間の構造上の弱点を理解した上で、最適時・最好機に人間に対する作戦に着手することができたと考えられます。
「(神は)・・・ケルビム(羽を持つ生き物)であるあなたは、守護者として任命された」(エゼキエル書28章14節)。これらから理解できることは、サタンは、エデンの園において人間を保護する高い地位にある守護天使であったと推定できます。すると、創世記の記述をより良く理解できます。すなわち、サタンは、エデンの園において最初の人間夫婦アダムとエバを守護する天使であったので、常時、人間夫婦アダムとエバの傍らにおり、彼らを最適の位置で観察できたということです。したがって、サタンは人間の性質を最も良く知ることができる立場におり、人間の構造上の弱点を理解した上で、最適時・最好機に人間に対する作戦に着手することができたと考えられます。
もし仮にサタンがエデンの守護天使でなければ、エバにはアプローチできなかったでしょう。むしろ、サタンがエデンの守護天使であって初めてエバへのアプローチが可能であったと言えます。すなわち、もし仮にサタンがエデンの守護天使でなければ、エデンには他の守護天使がおり、サタンがエバにアプローチしようとすれば、その守護天使との対決になったことでしょう(おそらくケルビム対ケルビムの対決)。その場合には、サタンは、エバにアプローチすらできない可能性があります。
そして、この点に関し、サタンが最初に妻であるエバにアプローチしたのは偶然ではなかったと考えられます。人間の男女関係の性質及び弱点を理解した上で最初に女エバにアプローチしたと考えるのが合理的です。すなわち、サタンは、女エバを介して男アダムにアプローチした方が作戦上有効であり、男を落とし易く一層容易に人間男女を神から離反させられると考えました(サタンは男の女に対する慕情を利用した。)。恐らくサタンに惑わされた妻エバと運命をともにして神の裁きを受ける覚悟で夫アダムはエバの与えた「善悪の知識の木の実」を食べたと考えられます。後に、パウロは、この点に関し、「・・・アダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した」(テモテ第一の手紙2:14)と注釈しています(実際、サタンは、アダムとエバが別々にいる時にまずエバにアプローチし、決してアダムには直接話しかけませんでした。これはアダムに警戒させないためだったと考えられます。)
実際、人間の守護天使が反逆し人間がその最初の標的となったために、サタンの作戦実施を事前に阻止することは事実上不可能であったと思われます。その直後に、神は「命の木」を「ケルビム」と「回る炎のつるぎ」に守らせますが、これはケルビムでもあったサタンを阻止するために必要な戦力を配置したと考えられます(創世記3:24)。神は、罪を犯した人間が「命の木の実」を食べ続けて生きながらえさせないためにサタンも人間も「命の木」に接近できないように複数の「ケルビム」と「回る炎のつるぎ」を配置しました(創世記3:22)。ちなみに、この部分の英訳は、”winged creatures”と複数のケルビムを配置したことになっていますが、エゼキエル書1章によれば、ケルビムの総数は4名ですから、「命の木」を守ったケルビムは、サタンを除けば、2-3名であったということになります(実際には2名と推定するのが合理的かつ論理的です。ケルブ1名ではサタンを確実に阻止し得ないし、3名では1名無駄が生じるからです。なお、エゼキエル書を精読すれば、ケルビムとセラピムは各4名ずつ存在し、神の御座の周りに象徴的に立方体を構成していることを理解できます)。
創世記の記述を読む人々の中には、罪を犯した人類が処罰されて死にサタンも裁かれ処刑されれば、そこでサタンの計画はすべて水泡に帰したはずであるのに、どうしてサタンは成算のない反逆計画を実行に移したのかとの疑問を持つ人々がいます。創世記を精査すると、サタンの成算がどこにあったかを理解できます。
創世記では、創造の日は6日間で第7日目は安息日となっています(創世記1章・2章)。人間は、創造の第6日目に造られました(創世記1:27-31)。そして、神は、「そのすべての作業を終わって第7日に」休まれました(創世記2:2-3)。創世記の記述が前後しているので、時系列的に誤解されやすい点ですが、創世記2章15-25節の出来事は、創造の第6日目に起きたことです。というのは、創世記1章7節は、人間男女の創造を創造の第6日目としていますが、創世記2章15-25節の出来事は女の創造までに起きたことを記述しているから、女の創造が第6日目である以上、創世記2章15-25節の出来事は第6日と考えるのが合理的だからです。そこで、サタンの女に対するアプローチは、創造の第7日(安息日)の事件ということになります。
なぜサタンは創造の第6日目ではなく第7日目の安息日を作戦実施日に選んだのでしょうか?これを理解するには、まず創世記に描かれている一日が24時間の一日ではないことを理解する必要があります。実際、聖書中では1000年以上の長い期間を「日」と呼んでいる場合があります。創造の一日間に起きている出来事を考慮すれば、24時間の一日間に起こり得ないことは明白です。例えば、創世記2章15-25節の出来事は、創造の第6日の最終部分で起きましたが、これらのすべてが24時間の1日のうちに起き得ないことは明白です。また、イエスは、自らを「安息日の主」と呼び、一世紀当時も未だ安息日中であったことを示唆しています(マルコ2:28、ルカ6:5)。ちなみに、創世記が言及する「創造の日」7日間は、地球上の「一定の時間的区分」であり、天の「時間的区分」ではありません。ですから、地球上の安息日であっても天を安息日として律する訳ではありません。しかしながら、古代イスラエルでは、安息日にはいかなる労働も禁止されていました(出エジプト20:8-11)。また、この掟は極めて厳格で安息日に労働する者は死刑に処せられました(出エジプト31:14-15)。これは神の安息日に対する厳格な規律を示しています。
ところで、アダムとエバが罪を犯した時に未だ彼らには子供がいませんでした。もし仮にアダムとエバが罪に対する裁きを受け死んでしまえば、彼らの子孫は残らず、人類社会を形成するという神の目的は潰えます。確かに、中には、「アダムとエバが裁かれて死んでも、神は新しい人間夫婦を造り彼らから人類社会を形成できるではないか」と考える人々がいます。しかしながら、アダムとエバが罪を犯したのは創造の第7日「安息日」であり、新しい夫婦を創造し創造の第6日に行われた創世記2章15-25節の創造のプロセスを創造の第7日の安息日中にやり直すことは、既に述べたように、神の「安息日」に関する厳格な規律に反しました。さらに、創造の7日間は第7日目の安息日が終わったら再度創造の第1日目から繰り返されるのではなく、地球に関する創造の日は7日間が一巡すれば二度とは再開されません。すなわち、地球の創造の7日間は一巡のみであることにも留意する必要があります。同じ惑星・地球上の創造の日が何度も繰り返されると解するのは不自然かつ非論理的です。
勿論、アダムとエバに子がいれば、その子から人類社会は存続し得ました。そこで、サタンが作戦計画を「安息日」に入った後、アダムとエバに子が生まれる前に実施することは、神の制度及び計画を理解した上で成算を見込んでのことであったと考えられます。すなわち、アダムとエバの間に子がいない以上、彼らを裁いて死に処し、人類社会を根絶するわけにはいかず、同時に「安息日」に人類創造のプロセスを再開できない神の厳格な規律を熟知した上で、反逆した人類社会が形成されれば、サタンは少なくとも一定期間に渡り人類社会を自らの支配下に置けると考えて、サタンは自らの神に対する反逆計画を実行に移したと推測できます。実際、神は、アダムとエバを即日処刑できず、彼らはしばらく生きながらえて子孫を残し、彼らの子孫は人類社会を形成しましたから、サタンによる「正邪に関する最終的決定権」及び「人間の生死に関する最終的決定権」に異議を唱えて実行された神の支配権に対する挑戦は、一時的には成功しました。
しかしながら、神としては一時的に成功したかのように印象付けられたサタンによる反逆の影響を完全に除去し、サタン(あるいは他のいかなる強力な天使たちも)の支配も完全に失敗に終わることを証明するために一定の時間を取る必要がありました。すなわち、そのままサタンに対する処罰を強行しサタンを強大な軍事力で鎮圧しても、サタンが神の支配に対する挑戦を一時的にせよ成功させたという神の支配に対する否定的な印象は残り、天使たちの間にすら神の支配の正当性に関する疑問を永遠に残した可能性があります。実際に、サタンの神に対する反逆が永久的に成功する可能性があると見た天使の多くがサタンの反逆に与し神から離反しました。もっとも、最終的にアダムとエバは老いて死に、最初の人類社会はノアの大洪水で完全に払拭されてしまいました。
なお、サタンが神の支配権に対して抱いた野心が人間の創造以降に醸成されたとは限りません。なぜならば、人間の創造(特に女性)が神の被造物の中の神の支配に楔を打ち込める唯一の好機と考え、これがサタンの野心の発現の契機となったとしても、サタンの野心自体ははるか遠い昔から醸成されていた可能性があるからです。すなわち、サタンの立場上、サタンが天において神に最も近い位置で他の天使たちにアプローチして反逆の実行に着手しても全く成算は立たなかったと考えられるからです。また、既に述べたように、創造の第七日、安息日に入ってから、最初の人間夫婦アダムとエバに子ができるまでの期間にしかサタンの成算は立ちませんから、サタンは野心を抱きながらも創造の第7日以前には反逆を実行に移すことはできなかったでしょう。
ところで、ニューヨークに本部を置く某キリスト教団体によれば、サタンの反逆と最初の人間男女アダムとエバの反逆により、すべての知的被造物の神に対する忠節に疑問が生じたので、神はすべての倫理的問題に最終的な決着を付け、ご自分の支配の正当性及びすべての知的被造物の忠節に関する立証のために一定期間サタンの支配を許され、未だ生まれない最初の人間夫婦の子孫に対する憐れみから彼らに忠節を証明する機会を与えたと主張します。確かに神の憐れみという点を敢えて否定するつもりはありませんが、一天使と一夫婦の反逆によりすべての知的被造物の神に対する忠節に疑問が生じたと解することには、疑問があります。いずれにせよ、アダムとエバに子孫を設ける機会が与えられた一次的な理由は、「神の制度上の問題」であり、「人類の子孫に対する憐れみ」は二次的な理由だったでしょう。なぜならば、人類の一部子孫に忠節な者が生まれる可能性があっても、それは未だ生じていない単なる可能性であり、人類社会に確実に生じる惨劇と害悪に比べて得るべきメリットがより大きいとは言えず、可能であれば、新夫婦による出発の方が明らかに望ましいからです。「神の人類に対する憐れみ」を強調したがるのは、抑圧され虐待された弱小な人類にとっては自然な感情に基づくものでしょうが・・・・
ダニエル書7章10節には神に仕える天使の数は「万の万倍」”ten thousand times ten thousand”(英訳)、すなわち、一億いると書かれています。わずか一天使及び一夫婦の反逆がすべての知的被造物の神に対する忠節に疑問を投じたと解することは過大評価にすぎます。もっとも、サタンは、ミカエル、ガブリエルに次ぐ地位の天使であったと考えられますから、全天使に対する影響は大きかったと思われます(黙示録12:4)。一方、仮に神がご自分の支配の正当性を立証する必要性を感じたとすれば、それはわずか一天使及び一夫婦の反逆が端緒になったとしても、既にこの問題に関する論争が全天使たちの間に相当広範囲に浸透したはずです(例えば、「神に取って代わる支配者は存在し得るのか?」云々)。そもそも全天使たちの間に潜在的にすら何の論争も存在しないのに、わずか一天使及び一夫婦の反逆を端緒として、神が敢えて自らの支配の正当性の立証の必要性を主張したとすれば、静かな水面に一石を投じ、神自ら無数の天使たちの間にご自分の支配に対する疑問を醸成し動揺を創り出すことになり得ます。また、支配者として知的被造物の忠節を信頼せず懐疑的であるという印象を与えることは、神の統治にとってマイナスだったでしょう。
また、創世記1章26節は、神も天使も人間も同じ”image”(恐らく性質の具現)で存在すると記していますから、すべての知的被造物の神に対する忠節に疑問が生じたとすることは、神自らの支配者としての忠節にも疑問が生じたはずです。例えば、多数の子を持つ父親がいたとして、父親が落ち度なく完璧に子らを教育しても、1~2人の非行少年は生じるかもしれませんが、子のすべてが非行少年になったら、父親にも道義的責任がないはずがありません(同じ”image”であれば尚更)。すなわち、すべての知的被造物の神に対する忠節に疑問があるのであれば、父なる神自身の本質、統治方法及び自らのすべての知的被造物に対する支配者としての忠節にも疑問が生じるはずです。例えれば、創造者が全被造物を「自らの像」に想像し全被造物の忠節に疑問があると宣言するのは、鏡の中の自分の姿を嫌悪するのに似ているかもしれません。
この点に関し、ヨブ記1章2章がヒントを与えます。サタンは神に対して2度までもヨブの忠節を試みることを申し出ます。この時、サタンは、すべての知的被造物の神に対する忠節に対する疑問を投じてはいません。神に対する忠節に疑問があるとしたのは、人間(特に反逆した人類の子孫:この場合はヨブ)に対してのみです。そして、これはサタンの側から問題提起をしたのではなく、神の側から問題を提起したのです。神がヨブの忠節を褒めてサタンの注意を喚起したのに対して、サタンがヨブの忠節に疑問を投じたのです。もっとも、自ら反逆したサタンが他の天使たちの忠節に疑問を投じるのは立場上当然であるとは思います。確かに、サタンは、後にイエスを荒野で誘惑し(マタイ4章、ルカ4章)、天使たちをも配下にしていることから、罪のない人間や天使をも神から離反させることが可能であると考えていたことは明らかです。しかしながら、わずか一天使及び一夫婦の反逆が端的に神の支配の正当性とすべての知的被造物の神に対する忠節に疑問を投じたために立証のため時間を取る必要性を感じたという結論を聖書から導き出すのは合理的ではありません。
既に述べたように、サタンは、エデンに守護天使として任命される以前から神の支配権に対する野心を抱いたと考えるのが合理的です。すなわち、天使たちの間に、以前から「神に取って代わる支配者は存在し得るのか?」という論争があったとしたならば、サタンは長い間に「自らが神に代わって支配者たり得よう」と考え、自らが神に取って代わって支配者となる機会を模索していた可能性があります(「あなたは知恵に満ち、美のきわみである完全な印である」エゼキエル書28:12及び「あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚した」同28:17等の言葉は、サタンの反逆した動機を示唆しています)。そこで、サタンは、天使たちの間にある「神に取って代わる支配者は存在し得るのか?」という論争を承知した上で、エデンに守護天使として配置されたのを機会に、神の支配に付け入る機会を発見し、計画を実行に移したと考えるのが合理的です。実際に「天使の3分の1」がサタンの反逆に加担して神から離反したことは、このことを裏付けています(黙示録12:4)。
ちなみに、聖書全巻を通して示される神の裁きの基準からすれば、天使や人間を含む知的被造物は動機が行為や態度として外部に発現されない限り、裁きの対象にならないと理解されます(エゼキエル書28:15、ヤコブ1:14-15)。よく神は人の心を裁くと言われますが、これは人間の行為の背後にある動機をご存じで、人間の行為自体のみならず行為の背後にある動機に従って裁くという意味です。ですから、偽善的な人間の行為の背後にある動機に基づいて神はその人間の行為を裁くことができるという意味に理解されます。例えば、初期クリスチャンであるアナニアと妻サッピラは、教会に対する献金をごまかし、その偽善的な行為のゆえに死刑に処せられます(使徒行伝5:1-11)。
ところで、聖書は、サタンにも弱点があることに言及します。「主なる神はへび(サタン)に言われた・・・おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう」という言葉(創世記3:14)は、このことを示唆します。これは、サタンが、人間男女を誘惑して神から離反させ神に反逆したゆえに、卑しめられた状態で反逆者としての劣等感(コンプレックス)を抱くことを意味します。サタンは、他の天使たちと同様に「神の形」に造られ、「天使としての良心」を有していましたから、反逆者となったサタンは心理構造上反逆者としての「劣等感」を抱かざるを得なかったことでしょう。例えば、「悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう」(ヤコブ4:7)という言葉が示すように、人間が神に対する忠節を示し自らの立場を明らかにするときにサタンは逃げ去ります。サタンは、イエスに様々な仕方で神に対する忠節を捨てさせるように試みますが、すべて失敗に終わるとイエスから離れ去ります(マタイ4:1-11、4:1-13)。これは反逆者としてのサタンが神に対して忠節な人類に対して劣等感を抱いている証拠でもあります。
時々、サタンの目的は人類を絶滅させ地球を灰燼に帰させることであると主張する人々がいます。しかしながら、これはサタンの性質とは裏腹に考え難いことです。勿論、サタンの目的はすべての天使や人類を神から離反させることです。とはいえ、サタンは、イエスに対しても自らを「地の支配者」として誇り、イエスに神に対する忠節を捨てさせる代償として全世界の王国の「権威と栄華」を自信に満ちて提供しており、自らが誇るものを自ら壊滅させるとは考え難いのです(サタンは「これらの王国と栄華を任されている」と言っている)。同時に、サタン自らが人類を絶滅させ地球を完全に破壊すれば、サタンは、自らの支配権を放棄したことになり、支配の失敗を確定的に証明する結果になることは明白だからです。