なぜサタンは創造の第6日目ではなく第7日目の安息日を作戦実施日に選んだのでしょうか?これを理解するには、まず創世記に描かれている一日が24時間の一日ではないことを理解する必要があります。実際、聖書中では1000年以上の長い期間を「日」と呼んでいる場合があります(ペテロII 3章8節)。創造の1日間に起きている出来事の量を考慮すれば、24時間の一日間に起こり得ないことは明白です。例えば、創世記2章15-25節の出来事は、創造の第6日の最終部分で起きましたが、これらのすべてが24時間の1日のうちに起き得ないことは明白です。また、イエスは、自らを「安息日の主」と呼び、一世紀当時も未だ安息日(創造の第7日)中であったことを示唆しています(マルコ2:28、ルカ6:5)。ちなみに、創世記が言及する「創造の日」7日間は、地球上の「一定の時間的区分」であり、天の「時間的区分」ではありません。ですから、地球上の安息日であっても天を安息日として律する訳ではありません。しかしながら、古代イスラエルでは、安息日にはいかなる労働も禁止されていました(出エジプト20:8-11)。また、この掟は極めて厳格で安息日に労働する者は死刑に処せられました(出エジプト31:14-15)。これは神の安息日に対する厳格な規律を示しています。ちなみに、パリサイ人が、安息日に病人を奇跡的に癒していたイエスに対して言いがかりを得ようと、「安息日に病気を癒すことは許されているか」と質問した時に、イエスは、「安息日に1匹の羊が穴に落ちているのに、これを助け出さない者がいるか。・・・安息日に良いことをするのは許されているのです。」(マタイ12章9-14節)と答えられました。これは、イエスが安息日に神が人類を救済する活動を行うことが可能かどうかという疑問に対して婉曲に答えたものです。しかし、ここでイエスが「安息日に良いことをするのは許されている」と言われたからといって、「良い活動であれば安息日にもすべてが許容される」という意味に解することはできません。本来、神の支配する世界では、「良いこと」しか許されないのが当然であり、その意味では無制限と同じことになってしまうからです。イエスが、「穴に落ちた羊を助けること」を例に挙げていることからすれば、命に係る緊急事態のみ対処可能であると解するのが自然です。すなわち、もし安息日が明けるまで待てば、穴に落ちた羊は死んでしまう可能性が高いことでしょう。ですから、イエスの例えも決して神の安息日に対する厳格な規律を否定するものではありません。
アダムとエバが蛇(実際には、サタンとなった天使)に誘惑されて禁断の木の実(善悪の知識の木の実)を食べて、神によりエデンの園(楽園)から追放された聖書の創世記の物語は有名です。創世記第3章では、蛇が人間最初の女エバを禁断の木の実を食べるように誘惑する場面が出てきます(創世記3:1-6)。ここで蛇がサタン又は悪魔であることには異論もありますが、黙示録12章9節を見れば、龍=へび=悪魔=サタンであることを理解できます。神は、最初の人間夫婦アダムとエバに「善悪の知識の木の実をたべてはならない。もしその木の実を食べれば(食べたその日に)死ぬ」との禁令を与えられました(創世記2:16-17)。ところで、下線部の現代英語訳版は、“If you eat any fruit from that tree, you willdie before the day is over!”であり、「あなたがその木の実を食べれば、同日中に死ぬでしょう。」となります。すなわち、神は、アダムとエバが禁令を犯して「善悪の知識の実」を食べれば、彼らがその食べた24時間の1日にうちに死ぬと事前に宣言しておられました。
一方、エバは、蛇(サタン)に禁断の木の実を食べるように誘惑されると、蛇(サタン)に、“…He told us not to eat fruit from that tree or even to touch it. Ifwe do, we will die.”「神は、私たちにその木の実(善悪の知識の実)を食べても、触れてさえもならないと言われました。もしそうすれば、私たちは死ぬでしょう。」(創世記3章2,3節)と答えます。これに対し、サタンは、“No, you won't!”「いいえ、決して死ぬことはありません。」とエバを誘惑し、「善悪の知識の木」の実を食べさせ、その後、エバは、夫アダムに「善悪の知識の木」の実を与え、彼もこれを食べます。禁令を犯した二人はどうなったのでしょうか?意外にも、二人は、その日のうちには死にませんでした。エバの死亡年齢は不明ですが、アダムは930歳まで生きました(創世記5章5節)。後に、イエスは、“…the devil, …and everything he says is alie.”「悪魔(サタン)の言うことはすべて嘘です。」(ヨハネ8章44節)と言われました。しかし、サタンが「アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べても死なない」と言ったことは、少なくとも「その日(24時間の1日)のうちには死なない」という意味では真実となりました。では、なぜ神は、アダムとエバは、神の事前の宣言通りに同日中に死ななかったのでしょうか?
これには神の他の制度や基準および創造の目的をも考慮する必要があります。まず、神の制度下で禁令を犯し、罪を犯した知的被造物(天使たち)の報いは常に「死」のみだったと考えられます(ローマ6章23節)。したがって、過去において禁令を犯した、または自らの行為に対する正当な理由を示せない天使たちが神の裁きにおいて常に経験してきた現実は、「罪に対する寛大な赦し」ではなく、「罪に対する報いとしての絶対的な死」でした。そこで、アダムとエバの禁令違反に対してサタンを含めた天使たちが予測した神の裁きの選択肢は、2つ、有罪による死か、無罪による生かの2つに1つでした。しかし、神は、予め「善悪の知識の木の実を食べても、それに触れても、同日中に死ぬ」と宣言されていましたから、結局、神が採り得る選択肢は、二人を原則通りに同日中に死に処することのみだったと解されます(“Heaven and earth may disappear. But I promise you not even a periodor comma will ever disappear from the Law. Everything written in it musthappen.”「天地が消え去っても聖書に書かれた最も小さな一文字すら成し遂げられないということはあり得ない」の趣旨、マタイ5章18節)、例えば、格言「綸言汗の如し」、エステル書8章8節、「アハシュエロス(おそらく、クセルクセス1世)、『王の命令は取り消せない。』」)。
ところで、エゼキエル書28章1-19節によれば、蛇(サタン)は、高位の天使であるケルビムであり、エデンの園でアダムとエバの守護天使であったと考えられます。この記述は、一義的にはツロ(ティルス:レバノン南西部に位置するユネスコ世界遺産に指定された都市遺跡。当時はフェニキア人の都市国家)の王に宛てられた言葉ですが、二義的にはサタンに適用されると伝統的に理解されています。ここでは「あなたはエデンの園にあって・・・」(エゼキエル書28章13節)、「わたしはあなたを油そそがれた守護のケルブと一緒に置いた」(エゼキエル書28章14節)という表現に注目できます。同部分の日本語訳は重要な点が曖昧であるので標準英語訳を参照することにします。”You were in Eden, God’s garden・・・”「あなたは神の園であるエデンにいた」(エゼキエル書28章13節)、”You, a winged creature (cherub), were installed as a guardian・・・” 「(神は)・・・ケルビム(羽を持つ生き物)であるあなたは、守護者として任命された」(エゼキエル書28章14節)。すると、創世記の記述をより良く理解できます。すなわち、サタンは、エデンの園において最初の人間夫婦アダムとエバを守護する天使であったので、常時、人間夫婦アダムとエバの傍らにおり、彼らを最適の位置で観察できたということです。したがって、サタンは人間の性質を最も良く知ることができる立場におり、人間の構造上の弱点を理解した上で、最適時・最好機に人間に対する作戦に着手することができたと考えられます。
そして、この点に関し、サタンが最初に妻であるエバにアプローチしたのは偶然ではなかったと考えられます。人間の男女関係の性質及び弱点を理解した上で最初に女エバにアプローチしたと考えるのが合理的です。すなわち、サタンは、女エバを介して男アダムにアプローチした方が作戦上有効であり、男を落とし易く一層容易に人間男女を神から離反させられると考えました(サタンはアダムのエバに対する慕情を利用した)。恐らくサタンに惑わされた妻エバと運命をともにして神の裁きを受ける覚悟で夫アダムはエバの与えた「善悪の知識の木の実」を食べたと考えられます。後に、パウロは、この点に関し、「・・・アダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した」(テモテ第一の手紙2:14)と注釈しています(実際、サタンは、アダムとエバが別々にいる時にまずエバにアプローチし、決してアダムには直接話しかけませんでした。これはアダムに警戒させないためだったと考えられます。)守護天使が反逆し、アダムとエバを惑わし、神から離反させようとしたのだから、二人の違反は不可抗力だったのではないかと主張する人々もいるかもしれませんが、パウロも注釈しているように、アダムはすべてを理解した上で自分の違反の道を選んだのですから、言い訳にはならなかったと思われます。しかし、アダムが処罰され、サタンも処罰されれば、すべてが決着し、サタンにはどのような成算があったのかという疑問も生じ得ます。
創世記では、創造の日は6日間で第7日目は安息日となっています(創世記1章・2章)。人間は、創造の第6日目に造られました(創世記1:27-31)。そして、神は、「そのすべての作業を終わって第7日に」休まれました(創世記2:2-3)。創世記の記述が前後しているので、時系列的に誤解されやすい点ですが、創世記2章15-25節の出来事は、創造の第6日目に起きたことです。というのは、創世記1章7節は、人間男女の創造を創造の第6日目としていますが、創世記2章15-25節の出来事は女の創造までに起きたことを記述しているから、女の創造が第6日目である以上、創世記2章15-25節の出来事は第6日と考えるのが合理的だからです。そこで、サタンの女に対するアプローチは、創造の第7日(安息日)の事件ということになります。
ところで、アダムとエバが罪を犯した時に未だ彼らには子供がいませんでした。もし仮にアダムとエバが罪に対する裁きを受け死んでしまえば、彼らの子孫は残らず、人類社会を形成するという神の目的は潰えます(創造の6日間に行われた神のすべての創造の業は、神の様に創造された人間がいなければ無意味に終わったことでしょう)。確かに、中には、「アダムとエバが裁かれて死んでも、神は新しい人間夫婦を造り彼らから人類社会を形成できるではないか」と考える人々がいます。しかしながら、アダムとエバが罪を犯したのは創造の第7日「安息日」であり、新しい夫婦を創造し創造の第6日に行われた創世記2章15-25節の創造のプロセスを創造の第7日の安息日中に再開することは、既に述べたように、神の「安息日」に関する厳格な規律に反しました。なお、創造の7日間は第7日目の安息日が終わったら再度創造の第1日目から果てしなく繰り返されるのではなく、地球に関する創造の日は7日間が1回循環すれば二度と再開されないと解されます。すなわち、惑星・地球上の創造の日は、1循環のみと解するのが自然であり、かつ合理的です。
勿論、アダムとエバに子がいれば、その子から人類社会は存続し得ました。そこで、サタンが反逆計画を「安息日」に入った後、アダムとエバに子が生まれる前に実施することは、神の制度・基準および計画を理解した上で成算を見込んでのことであったと考えられます。すなわち、アダムとエバの間に子がいない以上、彼らを裁いて死に処して人類社会を断絶し、地球創造の目的を挫折させるわけにはいかず、同時に「安息日」に創造の第6日目までに完了すべき創造のプロセスを再開できない神の厳格な規律を熟知した上で、サタンは自らの神に対する反逆計画を実行に移したと推測できます。実際、アダムとエバは、神が事前に宣言した通り、即日死なず、アダムは930歳まで生き、生きながらえて子孫を残し、彼らの子孫は人類社会を形成しました。思うに、サタンが反逆の野心の芽を創造の第1日に育んでいたとしても、実行に移すには創造の第7日目「安息日」に入った後、アダムとエバに子が生まれる前まで待つ必要があったことでしょう。実際、神は、当初、サタンを含む全天使が予想した第1の選択肢(アダムとエバを即日死に処すること)、第2の選択肢(アダムとエバを赦免すること)のいずれの選択肢も採れませんでした。すなわち、子のないアダムとエバを即日死に処せば、地球に関する神の創造の目的は挫折し、一方、神の宣言と原則を破って二人を赦免すれば、知的被造物の秩序を保てず、いずれの選択肢を採った場合にも神の絶対性は否定され、神は、自らを絶対支配者として維持できなくなったことでしょう。サタンの反逆に対する成算はそこにあり、実際、サタンの反逆は当初は成功したように見えました。
しかし、神は、天使もサタンも予測しなかった第3の選択肢を採りました。それは、自らの独り子・知的被造物の長子である天使長ミカエルを人間キリスト・イエスとして誕生させ、彼の死によりアダムの罪を贖わせることです(創世記3章15節、ヨハネ1章1-3節、ローマ3章23-25節、マタイ20章28節、黙示録12章7-9節)。ただし、この第3の選択肢は、人類および天使を含む神の被造物に想像を絶する苦難の歴史を背負わせることになります。それは、人類の歴史を見れば明らかであり、天使の多数が神から離反してサタンの側に加担したことからも明らかです(黙示録12章3、4節、「星の3分の1」、星は天使を意味すると解される)。
このことは、トロイア戦争での王アガメムノンとイフゲニアを連想させます。トロイの王子バリスに王妃ヘレナを奪われた王アガメムノンは、トロイとの戦争にギリシャ兵を動員することを死地に赴くギリシャ兵に受け入れさせるために、娘イフゲニアを生贄として祭壇で犠牲にします。これは、被造物の長子である天使長ミカエルを人間キリスト・イエスとして贖いの犠牲にしたのは、単にアダムの罪を贖うことだけではなく、被造物の長子・天使長ミカエルを犠牲にすることにより全被造物に苦難を受け入れさせることができる効果もあったと考えられます。すなわち、天使長ミカエルさえ贖いの犠牲になったのであれば、全被造物は沈黙せざるを得ないからです。もっとも、キリストの死が自発的なものではなく、強制的なものであったら、効果は逆になったかもしれません(マタイ4章1-11節)。この第3の選択肢は、サタンの予想外でした。しかし、この第3の選択肢の成功を証明するのには、時間が必要であり、安息日の最終段階まで待たなければなりませんでした(黙示録20章7-10節)。歴史的には、イエスが贖いとして犠牲にならなければ・・・等々、実際に起きなければ証明にならない出来事が安息日の終わりまでには多数あります。したがって、サタンの処罰も安息日の最終段階まで行われないでしょう。第3の選択肢を選択した神の正当性と成功を見届ける必要があるからです。現在までに神を信じる人々を支えているのは神の最終的成功に対する信仰であり、既に証明された事実ではありません(ヘブライ11章1-3節)。
ところで、何がサタンの反逆の端緒になったのでしょうか?神は、サタンとなった天使を最も信頼して、サタンを最初の創造(Genesis)の最重要部分である最初の人間夫婦の守護天使に任命したと考えられます。しかし、それはサタンにとっては決して栄典・特権ではなかったかもしれないということです。おそらく天で第三位の天使であったサタンにとって、この微小な惑星・地球上でエデンの園の最初の人間夫婦を守護するという役割への配置は降格にも思えたかもしれないということです(エゼキエル書28章3節、12-17節、「あなたは、知恵に満ち、美の極みであった・・・あなたの心はその美しさのゆえに傲慢になった」という記述)。これは、明智光秀の能力を高く買った織田信長が、光秀の現領地である坂本を没収し未だ敵領地である石見等を新領地としたことが光秀に不信を抱かせ、光秀に信長に代わり天下を取る気にさせ、本能寺の変の端緒になったのに類似しています(これは日本の歴史ですが・・・)。おそらくサタンは、人間を近くで観察して人間が自分たち天使よりも劣等であり、脆弱な生命体であることに気付いたと思われます。例えば、ヘブライ2章7節によれば、人間は「天使たちよりも少し低い」と表現しています。また、ヨブ記1章2章では、サタンは、ヨブを含めた全人類を見下して人類の価値・倫理性を低く評価しています。これは、サタンが人間を利用して反逆に着手したこととも関連性があると思われます。すなわち、天使よりも格が低い劣等な知的生命体である人間の守護天使に任命されたことが、高位の天使であったサタンの誇りを傷つけたために、サタンは、神の創造の目的を挫折させて報復したいと考えたのかもしれません。そして、その経緯からサタンが見抜いた人間の脆弱な性質を反逆の端緒に利用したとも考えられます。
ところで、エデンには象徴的な木が2つありました。1つは「善悪の知識の木」、もう1つは「命の木」です。ここで明らかに「善悪の知識の木」は神の正邪に関する最終的決定権を、「命の木」は人間の生死に関する最終的決定権を象徴的に現わしていました。勿論、文字通りに、「善悪の知識の木」の実が人間に正邪の判断能力を与え、「命の木」の実が人間を不老不死にする化学的組成を有していたわけではありません。これらは神の排他的権限の象徴でした。すなわち、サタンが神の「善悪の知識の木の実をたべてはならない。もしその木の実を食べれば死ぬ」との禁令に反する「その木の実を食べても死なない」という助言をエバに与えたことは、最初の人間夫婦アダムとエバを誘惑して神の排他的な「正邪に関する最終的決定権」及び「人間の生死に関する最終的決定権」を否定し、同時に人間夫婦を自分の側に引き込んで神の排他的権限に挑戦するように仕向けたと言えます。結果として、アダムとエバは、神の「正邪に関する最終的決定権」及び「人間の生死に関する最終的決定権」を否認し、自ら「正邪に関する決定権」及び「人間の生死に関する最終的決定権」を支配しようと試みました。ここでサタンが敢えて神の「正邪に関する最終的決定権」及び「人間の生死に関する最終的決定権」に人類を挑戦させたということは、自ら神の排他的権限を保持し神に代わって絶対的な支配者たらんとする野心の表明でもありました。しかし、神は、サタンを阻止するために2名の「ケルビム”winged creatures”」と「回る炎のつるぎ」を配置して「命の木」への道を守らせます(創世記3章22-24節)。すなわち、神は、罪を犯した人間が自由に「命の木の実」を食べ続けて永遠に生きながらえさせないためにサタンも人間も「命の木」に接近できないように阻止する必要がありました。次に、神は、「善悪の知識の木の実」を食べて自ら正邪の基準を確立しようとした人間とサタンの誤りを証明し、自らの正当性を証明する必要がありました。
ところで、神は、キリストの贖いの犠牲をもって人類の罪を贖ったとはいえ、人類が生存への道を選択する可能性は低いと言えます(マタイ7章13、14節、「命に通じる門は狭く、そこから入るものは少ない」)。神は、モーセを遣わしてイスラエルをエジプトの隷属状態から解放し、紅海を分けてファラオの率いるエジプト軍を壊滅させて救出しました(出エジプト記14章5-31節)。イスラエルの全民衆は、神を賛美し歓喜して踊り歌います(出エジプト記15章1-26節)。少なくともこの時点でイスラエルは神に信仰を置き、神を賛美、崇拝していました。ところで、イスラエル人がエジプトのゴシェンの地で奴隷だった時に彼らの食生活は決して貧しくなく、差別虐待の対象ではありましたが、エジプト文明の食生活の恩恵に預かっていたと考えられます(民数記略11章4、5節)。聖書は、イスラエル人がエジプトで奴隷だった時に「肉、魚、野菜、果物を食していた」と記しています。有名なエジプト考古学者のザヒ・ハワス博士も「エジプト奴隷は過酷な待遇を受けていなかった」との見解を示しています。これに対し、イスラエル人は、出エジプト後の荒野では「マナ」と呼ばれる甘い樹脂質の食物のみを与えられました(民数記略11章6-9節)。イスラエルは、40年間、毎日毎日マナのみを食べていました。仮に信仰があってもエジプト文明の食生活に慣れていたイスラエル人にとって耐え難いことであり大きな試練であったことでしょう。また、荒野でのイスラエル人には水が不足していました(民数記略20章5節)。さらに、周囲には好戦的な異民族が多数住んでいました。すなわち、イスラエル人は、長年に渡り毎日同じ味覚のマナのみを食し(他の食材は皆無)、水は不足し、好戦的な異民族と闘いながらカナンの地に入らなければならなかった訳です。現在文明国で物資豊富で多彩な生活している篤信な信者たちが当時のイスラエル人を反面教師として異なる道を歩むことが可能であると安易に考えることはできないでしょう。神の命に従わずカナンの地に攻め入らなかったこと、神が与えた食物であるマナに不平を言ったこと、肉を食べたい、水が足りない、等の不平を言ったこと、等の不信仰で多数のイスラエル人が荒野で死に絶えます。すなわち、エジプトを脱出した20歳以上のイスラエル人の男子の数は合計約62万5550人でしたが(上記民数記略に基づく計算)、約束の地に入ったのはエフネの子カレブとヌンの子ヨシュアの2名だけで、残りの約62万5548人は荒野で死に絶えました。したがって、生存率は約0.00032%(31万2774分の1)と算定されます。荒野で死に絶えるよりは、エジプトに奴隷として残った方が安楽な人生を歩めたかもしれないし、それも1つの選択肢だったことでしょう。熱狂的にエジプトを出たものの、自らの末路を予め知っていたら、異なった選択をした者も多いはずです。
とはいえ、旧約聖書に信仰を抱く篤信な信者たちは、この物語をエジプトの奴隷としての強制労働から解放され、紅海で海を分ける奇跡を見たにもかかわらず、信仰を保てなかったイスラエル人たちを不信仰の最たる例に挙げて教訓として学び、自らは同じ道を歩まないようにと自戒します。篤信な信者たちは、自分たちは不信仰なイスラエル人とは異なり約束の地に導き入れられる種類の人間になり得ると考える傾向があります。しかし、40年間、毎食マナのみで生活することは通常の人間には極めて過酷であり、安易に不信仰と非難はできません。文明の恩恵に慣れた現代人には尚更のことでしょう。こ過酷な運命こそが神の第3の選択肢において人類が必然的に経験するものです。