妻と子供が実家に帰って時間が出来たので急遽名古屋を訪問しました。

新幹線を使えば京都から40分。
正直朝11時までグータラしていましたが、急遽エクスプレス予約で12時過ぎの新幹線を予約!

1時前にはもう名古屋駅
という急展開でした。
やはり人間決めると行動までは早い、、

{5173624C-1CA0-4CE6-9105-D8BA1BE3AD80:01}

{B0DE7662-5D3E-4C60-9376-A940F421B262:01}

JR名古屋駅前は高層化が進んでいます。
やはりランドマークには高層ビル。

その都市と魅力を一気に高めますね。

{2A981D06-1F32-40AB-9D9B-1C1B2D2A8F17:01}

スパイラルタワー。
HAL、モード学園のビルです。
これも圧巻。

名古屋駅から名古屋一の繁華街
栄まで歩きました。

道中、名古屋の歴史を学ぶ。
地元の人は
あまり見ないかもしれませんが、
観光客にはありがたい配慮です。

{55E38A7B-7C85-4DF4-AE4C-B4F036B7E8DE:01}

{54AA9D34-65F9-4892-B843-D8D45B1FC8CD:01}

{89B39462-9499-477A-9D30-DB381381026F:01}

私の地元、福岡の天神
大きくしたイメージですね。

広範囲に人が回遊しつつ、
大阪のように建物が密集していません。
{AAA12D49-290B-4531-8122-60FA4B5F668D:01}

{774F5DE9-357F-4D69-9885-6429A640038E:01}

{CACE204C-362D-4087-892A-3EE3E2459ED7:01}

{10D589CC-C553-4B7E-8D4E-2CDE6BED9B75:01}


100m道路※など、戦災や災害で破壊された街故に災害に配慮した街並みを計画的に作ったのです。

少し横浜の関内あたりの雰囲気にも似ていました。名古屋と異なり横浜の大通り公園は運河を埋め立てたもののようですが。


名古屋市政資料館
{59AC4D22-EDFC-4191-99E5-D4B0B8F0F307:01}

{FFB3F64B-9618-461A-8F87-425359BEA19A:01}

{B3FAF6B3-C742-428D-BF47-881B3C71ED0E:01}
元々裁判所でしたが現在は無料にて一般公開されています。

花より団子や坂の上の雲というドラマのロケ地でもあり、コスプレした女の子が撮影していました。(写真に少し写り込んでますね)
{C0633AFB-D0C7-43F9-A5A8-DAE2FAA46A8D:01}

その後名古屋城まで15分ほど歩いたものの、城の中には16時までしか入れずに断念しました。

遠景のみ。
入口までは行ったのですが、、
意外と閉まるの早いですね、、
{54F3293D-7899-4BD1-82F1-2C27F850F1C2:01}

ちょうど名古屋場所中でした。
{B4BE2D5A-1A93-4A99-B774-7FA72CA2EB06:01}

その後、三種の神器の一つ
草薙神剣が収められている熱田神宮へ。
電車を使えば名古屋城から20分程度。
{F4E81E10-E1E3-431B-A6EB-5CB5CF6568BA:01}


しかし、宝物館は16時半まで。
意外と閉まるの早いですね、、

しかし!
休憩所にある宮きしめんにて食べた冷やしきしめん700円が非常に良かったです。

汗だくでしたので、塩分補給も兼ねて汁まで飲み干しました。。
{F3BBC5D2-4EB9-408A-A7EF-21E55592A2FB:01}

{2D86B806-C465-44EE-82A0-FCFBC9F4B90F:01}

{59435DFF-BCEE-4FBC-A164-ACC826C95933:01}

賽銭は50円と奮発。
自分なりに勇気を振り絞って、、

その後、駅前のキッチンなごやにて名古屋セット1400円。地ビールもついて大満足の内容でした。意外とお腹一杯になります。
{A3B19A7B-FCBD-47F2-9665-5874AE51E35F:01}


名古屋は、大きな地震、空襲、台風により街が何度も壊滅的な被害を受けました。

それにもめげず、将来を見据えた復興計画や多くの博覧会により復興、発展を遂げたたくましい都市であることを今回の旅で学びました。

やはり百聞は一見に如かず。
230万人の人口を誇る名古屋市

思いつきの小旅行でしたが、その魅力の一端に触れることができました。


※100m道路 (Wikipedia より)

100m道路は、太平洋戦争大東亜戦争)での日本の敗戦後、日本本土空襲によって被災した日本各都市の復興のために戦災復興院が立案し、1945年昭和20年)12月に閣議決定された「戦災復興計画基本方針」のなかで計画されたものである1。戦災復興院は将来の車社会の到来を予想、主要幹線道路の幅員は大都市では50m以上、中小都市でも36m以上と定めたが、更に必要な場合の緑地帯防火帯を兼ねたものとして計画されたのが100m幅での道路建設であった1

当初は全国で24本の100m道路が計画されていたものの、日本占領軍であった連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による、「敗戦国に立派な道路は必要ない」との反対や、1949年昭和24年)のドッジ・ラインに基づく緊縮財政などによって、名古屋市の2本と、広島市の1本のみが実現した1