6/26(水)

 

 

@日本橋

TOHOシネマズ にて

 

 

 

 

関心領域

 

 

2023年|アメリカ、イギリス、ポーランド|105分

 

監督・脚本:ジョナサン・グレイザー

原作:マーティン・エイミス

音楽:ミカ・レヴィ

出演:クリスティアン・フリーデル、ザンドラ・ヒュラー 他

 

 

 

このビジュアル ↑ が

なんとも印象的であり

 

そして、公開前に、なぜだか、本当に

予告編を目に、耳にする機会が多くて

あの特徴的な、独特な音使いが耳に残り

 

ただ、私、こういった、戦争や

ホロコーストに関するような映画は

とても苦手で

その苦手を凌駕するほどの

よっぽどのなにかがない限りは

足が向くことはなく

 

この映画も、気になりはするものの

足を運ぶ予定はなかったのですが

 

ブロ友さんたちの感想を読んだり

 

はたまた、いまちょうど

ナチス台頭前夜を舞台にした

小説を読んでいるせいもあったのか

わからねど

 

突然、観に行きたいかも 凝視 となって

 

そのよくわからない

突き動かされるような勢いのまま

行ってきてしまったのでした

 

 

ビジュアル ↑ にも入っている通り

 

アウシュビッツ収容所の隣で

幸せに暮らす家族がいた

 

というお話

 

 

加えて、その

アウシュビッツ収容所内の様子は

いっさい映されることなく

聞こえてくるのは、その音のみ

というつくりだという前情報と

 

それから、解説

とまではいかないまでも

ガイドとなるような感想ブログを

読んでいたこともあり

 

当日はちょっと

睡眠不足だったこともあって

睡魔にちょいちょい

目隠しされつつも;どうにか

ついていくことができました

 

 

前述の通り

アウシュビッツの収容所と

壁一枚で隔てられた場所で暮らす一家

(所長とその妻、子どもたち)の様子が

淡々と写しとられていき

 

そう、ものすごく淡々、なんですよね

ドラマ、というよりは

ドキュメンタリーのような

と言ったらいいのか

 

登場人物たちの表情が

アップになることはほとんどなく

感情を映す、というよりも

記録映像のように写しとっている風で

 

そうだ、絵画鑑賞に似ているのかも

と、観終わったあとに思ったのですが

 

絵画に描かれている

謎めいたワンシーンの端々を観察し

これはどういった情景なのかを想像し

読み解いていく感じ、というか

 

なので、結構な集中力と

想像力を要するつくりになっていて

 

ゆえに、睡魔にもより

からめとられやすかったのであるが;

 

前述の通り、ガイド的なブログを

読んでからの参戦だったので

どうにかなりました(ふぅ)

 

 

収容所の惨劇を耳に

間接的に目にしながらも

それを見事にシャットアウトして

平和に、幸せに暮らしている妻

(ザンドラ・ヒュラー)

 

いかに効率的に

大量のユダヤ人を処分するかに

腐心している所長である夫

(クリスティアン・フリーデル)

 

そこに遊びにやってきた妻の母は

その聞こえてくる音に耐えられずに

置き手紙をして去っていく

 

この状況を、歴史を識ったうえで

映画として、傍観している身としては

妻の母が正常で、妻が異常だという

見方になると思うのだけれども

 

でも、最近、ずっと、じわ〜っと

考え続けていることに

繋がっている気がして

 

これ、戦争しかり

実際にその状況に陥ってみなければ

自分がどういう行動をするのか

どう対処するのか、って

わからないと思うのだ

 

映画を観て、感じたり

思ったりすることは

あくまで、平時に、映画を観ている

という状況であるから

というところも大いにある、というか

 

彼女(妻)は、壁一枚を隔てた

すぐ隣で起きていることに関して

パタン、と閉じ、もしくは

それに関しては、思考停止し

シャットアウトすることにしたのか

はたまた、慣れたのか

 

そう、慣れ、良くも悪くも

人は慣れてしまう生きもので

 

それがラストの

現代のシーンにも繋がっている

と思うのだけれども

 

アウシュビッツ収容所に関するものを

展示しているらしき施設で

遺品が山盛りになっている

ショーケースのガラスを磨き

その前の床に掃除機をかける

 

彼、彼女たちは

それが日々の仕事であり

いちいち、遺品に心を割いていては

仕事にならない

 

これがまた

いかに効率よく収容者たちを

始末するかを思案していた夫

(彼もまたそれが仕事)に

オーバーラップし

 

人は慣れるし、また

まさに目の前にあること

(なにがしかの問題)以外を

シャットアウトできる

生きもので

 

たとえば、武器や

なんらかの殺戮に用いられる兵器に

関わる開発なんかも

 

それがなにに用いられるかの部分を

シャットアウトしてしまえば

 

目の前にあるのは

これができるのか、できないのか

の、ただそれだけの問題となり

 

それに嬉々として取り組む

研究者の姿が目に浮かぶし

 

夫に関していえば

置き換えればいいのである

 

倫理的な、人間的な心は

シャットダウンして

 

ユダヤ人を別のものに

 

そうして

目の前の、大量のゴミを

いかに効率よく処理するか、を考える

 

でも、ふとした瞬間に

そのシャットダウン、

シャットアウトが解除されると

どっと押し寄せてくるもの

(=嘔吐)

 

これはなにも

ホロコーストに限ったことじゃなくて

 

いや、そもそも

ホロコーストも、対岸ごとではなく

いま現在と地続きなのであるが

 

そう、最近

イケメンパラダイスな

キラキラな新選組のドラマに

ハマっているのであるが

 

そのキラキラ部分を外せば

現代の感覚からしたらば

とても異様で

 

町中で斬りあいが起こり

はたまた、意見の相違で

あっさりと命が斬り捨てられ

規約に背けば切腹、と

 

現在の感覚からしたらば

ものすごく異常で

 

でもそれらのことは、創作ではなく

確かにあったことで

 

そうした価値観と時代の中にあれば

それが平常であり、正常で

 

正義や正しさなんかと同様に

正常、異常もまた、その時と場所

状況や立場、見方によっても

変わってくるもので

 

と思うと、いや、本当に

この映画の中で起きていることが

皮一枚隔てたくらいに

ものすごく身近に感じられるというか

 

また、その状況が

平常であるならば、の部分

 

映画の中で

収容所と壁一枚を隔てたところで

暮らしている子どもたちにとっては

 

聞こえてくる音

 

収容者を運んでくる汽車の音

銃の発砲音

怒鳴り声や叫び声や悲鳴、泣き声

おそらく死体を燃やしているのであろう

ボイラーかなにかの重低音

 

それらが日常を彩っている音なわけで

 

実際、その聞こえてくる怒声や、やり取り

状況なんかを遊びに取り入れているような

そんなシーンもあったりして

 

そうした状況で

それを日常として育っている

彼らにとっては、そうなるのが

ごく自然な流れであり

 

そういった意味でも

人間は、とても柔軟で、柔く

吸収性や順応性のある生きもので

 

とすると、この映画の中の妻と夫を

異常だ、自分とはまったく関係のない

理解できない、怪物のような人物だ、と

自身から切り離してしまうことはできない

というか

 

妻はともかく、夫に関しては

まさに、サラリーマン的な状況

でもあるんですよね

しかも、命がけの

 

それをしなければ、自身も家族も

あっという間に危うくなるわけで

付随することには目を瞑り

目の前に伸びている道を

ただひたすらに進むしかなかった

 

そう思うと、本当に、決して

対岸ごとではないし

 

もちろん、いまこの現状での

持ちあわせている、人間らしい

(と認識する)感覚や心を

なくしたくはない、とは

思うけれども

 

傍観している状況ではなく

実際にそういった状況に

追いこまれていったときに

はたして自分がどうなるのかは

わからない、というか

 

私の中にも

なにがしかの種は

埋まっていると思うのだ

 

それが状況に応じて

どう芽を出し、順応して

どう育っていくのかは

わからない

 

人間は、良くも悪くも

環境に応じて、変化していく

変化していける生きものだから

 

 

なぞなぞ、と、観終わったあとに

ひたすらに、いろいろなことを

考えてしまい

 

おもしろい、と言ったら

ちょっと語弊があるかもですが

いや、他に言葉が見つからず、で

 

んー、私にとっては

とても意義のある

ユニークなつくりの映画、でした