7/12(火)

 

 

@下高井戸

下高井戸シネマ にて

 

 

 

 

ポゼッサー

 

 

2020年|カナダ・イギリス合作|103分|R18+

 

監督・脚本:ブランドン・クローネンバーグ

出演:アンドレア・ライズボロー、クリストファー・アボット 他

 

 

 

操作したい相手の脳に装置を埋めこみ

その装置を通して、相手の脳に

意識のみを転送し、身体の所有権を奪い

相手の身体を使って、ターゲットを殺害

 

任務遂行ののちは

乗っ取っている相手の身体を殺す

=自殺することで

 

相手の身体から離脱し

自分の肉体へと意識が戻る

 

という

遠隔殺人システムを使っている

殺人を請け負う企業に勤めている

タシャ(アンドレア・ライズボロー)

 

次の殺しの依頼のターゲットである人物に

近しい存在(実質的、肉体的に

殺人者となってもらう人物)である

コリン(クリストファー・アボット)の

身体へと入りこんだところ

 

なにかが狂いはじめ

意識の制御、所有権の維持が

不安定になりー

 

というお話

 

 

タイトルの「ポゼッサー」は

「所有者」の意

 

 

ディストピア的世界も

 

あまり説明がなく、観念的というか

解釈が委ねられているような

謎めいている描き方も

 

暗く、緊張感とはまた違うような

どこか気持ちの悪さもあるような

そんななにかがずっと漂っている

(渦巻いている?)ように感じられた

空気感も好み

 

肉体的に痛いのは苦手なので

容赦のない殺傷描写

(刃物での滅多刺しだったり

目玉のえぐり出し、切られ飛ぶ指、等々)

には、ひえぇ…、となったけれど

 

CGをいっさい使っていないという

比喩的な諸々の描写もあわせて

監督の個性が強く感じられる気がして

 

そこのところでも好みでした

 

 

-------------

以下、ネタバレを含みます

苦手な方はご注意ください

 

また、以下は私の解釈です

-------------

 

 

終盤の、まさにそのCGを使っていない

というのが生きていた気がする

コリンの脳内映像

 

肉体の所有権を奪われていたコリン(意識)が

タシャ(意識)の首をしめて、潰し

そのタシャの顔面の皮を被る

 

これは、その肉体の所有権を取り戻した

ということと、同時に

タシャの意識のうちの

自我や記憶等を奪ったということで

 

その後、コリン(肉体)は

 

 そう、おそらくわざとだと思うのですが

 どちらがいま所有権を握っている状態なのか

 終始いまいちわからない感じになっていて

 

タシャの元夫マイケルと

息子アイラのもとへと向かい

 

脳内の絵面としては

タシャはどこだ、と問うコリンと

 

そんなコリンに

「目の前のマイケルは敵だ」と囁き

コリンにマイケルを殺させるタシャ

 

となっているのだけれど

 

映画を観ている時点では、これは

コリンとして見えているのが

自我を剥がれたタシャの意識で

 

「目の前のマイケルは敵だ」と囁くのが

タシャの自我の皮を被ったコリンで

 

コリンは自分の身体をタシャに使われる形で

自分の妻を殺されているので

その復讐のために

 

自我を剥がれて混乱しているタシャ自身に

自分と同じように、家族を殺させる

ということをしたのかな?

 

と思っていたのですが

 

観終わっていろいろと考えたいま

 

まず、タシャは、ターゲットを殺す際

拳銃も持っているのに、なぜだか

ナイフや、暖炉の火かき棒のようなものを用い

執拗に、そのターゲットの肉体を傷つけていて

 

引き金を引くだけで、殺す感覚を

それほど味あわなくてすむ拳銃ではなく

手に感触が直に伝わってくる

そういった殺し方をする

(しかもかなり容赦なく執拗に)

ということは

 

タシャ自身がそれ(殺すこと)を

味わうことを望んでいる

そういう本質の持ち主であり

 

かつ、ターゲットが男性の際は

前述の通りだけれど

ターゲットが女性の際は

あっさりと拳銃を用いて殺していたので

 

なにかしら「男性」に対しての嫌悪

怒りのようなものを抱えているようで

 

だからこそ

ナイフでひたすらに刺す

火かき棒を口の中に突っこむ、という

性行為のときの男性サイドの動きを

模倣している状態になっているのかな

とも思え

 

そういうなにかを抱えている状態で

コリンという男性の身体に入ったタシャは

男性の身体を操る(「女性」から解放される)

ということに、たまらない魅力を

覚えてしまったのかな、と

 

それから

最後まで続いていたタシャの不調

離脱の際の自殺ができない問題は

 

元旦那と息子への想いからの

罪悪感(人間らしさ)が原因で

 

上司からそれを指摘されてもいて

 

序盤では、殺人の仕事を終えて

元夫と息子のもとへと向かう際

 

「殺人者」の自分から

「妻」そして「母」の自分へと戻るために

ひとりブツブツと会話の練習

話し方の確認をしているような

シーンがあり

 

おそらく、タシャを「人間」サイドに

繋ぎとめていたのが

元旦那と息子の存在で

 

でも前述の通りの

残虐な殺しをすることが

タシャの本質、もしくは

ひとつの本能、望み、だとすると

 

タシャ自身には

元夫と息子を大切に想う気持ちと

 

彼らさえいなければ

本能のままに行動できるのに

というような

わずらわしく思っている気持ちと

その両方があって

 

天秤の上で均衡を保っていたその

「人間(理性)」と

「殺人者(欲望)」の感情が

 

コリン(男性)の身体に入り

男性の身体を操作する快楽を

覚えてしまったことで

「殺人者(欲望)」の方へと傾き

 

ちょうどよく訪れた機会を利用して

 

タシャ自ら

「人間」サイドに繋がっていた

最後の糸を切った

(元旦那と息子を殺した)

ということだったのかな、と

 

そしてそこには、タシャが完璧なる

殺人者になることを望んでいた上司の

絶妙なアシストもあり

という、なんともなダークな展開

 

 

ラストシーンは

乗っ取っていた身体から離脱し

自分の肉体へと戻ってきたときに

異常がないか確認するための

テストのシーンで

 

それは、箱の中に、自分にまつわる

自分の持ちものと

まったく関係のないものが入っていて

 

それをひとつひとつ手にとり

それがなんなのかを言っていく

というものなのですが

(例えば「祖父のパイプ」とか

「これは知らない、私のものではない」とか)

 

その中に、子どもの頃に

自分で殺してつくったという

「蝶の標本」があり

 

以前の任務のあとのときは

「罪悪感を感じる」

というコメントがあったものの

 

コリンの身体から戻ってきた

ラストシーンでは

そのコメントがなくなっていて

 

まさに

「罪悪感(人間らしさ)」から解放された

「殺人マシーン(欲望だけ)」に

なったんだな………というのと

 

自分で殺してつくった「蝶の標本」

 

自分で殺した「自分自身」

 

というようにも見えて

 

なんとも、でした

 

 

 

「自己」とか「自我」とか「自分」とか

そして「人間」ってなんなんだろうなぁ…

ということを思うと同時に

 

映画の内容に関しても

あれこれと解釈を考えてしまい

 

こんな風に、鑑賞後に

いろいろと思考できる映画が好きで

 

なおかつ

映画サイトやブログを見ていても

本当にいろいろな解釈があって

おもしろいなぁ、と思います

 

 

 

映画館で集中して観られて

味わえて、よかったです

 

独特の世界観

空気感のある作品だったので

監督の次回作も追いかけたいな