三谷幸喜が小林聡美にすすめた本。
漂流しているところを救助されアメリカ人として再び日本の地を踏むことになる実在の人物、数奇な運命をたどった彦蔵を主人公とする、吉村昭の小説です。
人ってわからないよねぇ、漂流しなければ普通の船乗りとしての人生しかなかったかもしれない男が、こんな人生を歩むことになるんだから。
この小説を読み、江戸末期から明治に到る近代日本の黎明期を外国人の視線で見ることができた。
今まで生麦事件とか、日本人の立場でしか考えたことなかったので、新鮮でした。
それから、人ひとりひとりにとっていい人生、悪い人生ってあると思うけど、社会の上空から人々を見たとき、そこには、人生しか、いい人生も悪い人生もなく、ただ人生しかないんだな、とあらためて思った。
それはこの小説が特にいわんとしていることではないけど、誰かの人生を描くということは、おそらくそういう内容を伝えることでもあるんだと思う。
「かれは、これまでの自分の生き方を顧みることが多かった。帰国してからあわただしく生きてきたが、それは大海を漂流していた折の延長のように思えた。・・自分が今でも坊主船に乗って漂い流れているような気がする。」(『アメリカ彦蔵』 吉村昭 読売新聞社 1999年刊 p.435)
「彦蔵は、オトソンも父乙吉と同じように漂流民なのだ、と思った。日本国籍を得ようとして来日したが、日本の地になじめず除籍を願い出て却下された。かれは根のない浮草に似て、ただ漂い流れているにすぎない。それは、ふる里で死者扱いされて帰る地もない自分と同じなのだ、と思った。」(ibid.p.438)
「侘しい村ではあったが、潮の香のまじった空気がなつかしく、不意に涙が頬を流れた。自分のふる里は本庄村以外にないのだ、と胸の中で繰返しつぶやいた。」(ibid.p.440)
漂流と故郷、故郷をはなれることが漂流ではないけど、このふたつはきっとある種の対を構成し、多くの人の人生を語る、重要な言葉となっているのだと思う。
著者吉村昭は「日記に、『この小説は彦蔵を主人公とはしているが、漂流民のことを書くものでもある』と書いた。」(ibid.p.442)そうだが、漂流民のことを書くということは、とりもなおさず、すべての人のこと、人間というものを書くという意味でもあろう。
小林さんがこの本を読んでどういう感想をもったか知りたいなー。
ところで、この小説には彦蔵の恋愛がまったく描かれていない。
終わり近くで結婚した、と記されているだけだ。
この点、ヒロインを創作した『背教者ユリアヌス』と著しい対照をなす。
あらためて辻邦生の偉大さを思った。