この話は20日くらい前に書いたもので、チト時系列にズレがありますが、ご了承を。

ドラマは春のクールが始まってますしね

 

さてと、たまには真面目な事書いてみようか。

 

゛WANT YOU 俺の・・・゛こんなフレーズが昨日の帰りの車の中で何故か頭に浮かんじゃって

「誰だったっけ、歌ってたの?」って訳で中々思い出せなかったんだけどようやく今日になって、南義孝だ!ってモヤモヤが晴れた。

南義孝と言えば、60歳前後の人は大体知ってると思う。

最初の゛WANT YOU・・・゛は゛スローなブギにしてくれ゛

それから゛モンローウォーク゛なんて曲はオッサンオバサンなら今すぐにでも口づさめるんじゃ無いだろうか?

で、南義孝と言えばつきものと言えるのが、片岡義男だ。

゛スローなブギにしてくれ゛は片岡義男の小説だし当時のポパイ少年なんかだったら、当然両名ともにチェキしてたんじゃないだろうか?

実際、片岡義男はポパイに文章も載せていたし、ハワイ在住の経験もある片岡はアメリカに憧れていた少年少女のアイコンでもあったわけだ。

片岡、南共に70年代の中ごろから活躍してたんだけど、何を隠そう自分も丁度バイクに乗り始めたころで、片岡の小説(エッセイ)なんかを読み漁りながら、そんな光景を脳内でよみがえらせて湘南を飛ばしたりしていたって言う、ほのかな記憶がよみがえってくる。

ただ、その頃から斜に構えた性格だったものだから片岡の書くものは゛臭く゛写っていたんだ。

なんか、恰好付け過ぎ、現実味が無い・・・そんな感じで、う~んチトひょうげんするのが難しいんだけど、あこがれとしては漠然とあったけど、一歩引いて見ちゃうような。

だって、バイクで走ってたら前からキャッコウ良い女の子が走って来て、それで何たらかんたら・・・なんてありえないし。

ただ、漠然と゛逗子の海に沈む夕日゛だったり、恰好付けかもしれないけどバイクに乗ってる時のふとした孤独感とか、風の変化とか、具体的に何をして、って言うんじゃなく漠然と、なおかつ断片的に景色や空気はよみがえってくる。

もしかしたら、そういう言葉では言い表せないものが無意識に今の仕事に影響していたりするのかもしれない。

 

昭和で言えば50年代になるんだけど、この時代の日本はとってもいい時代だったんだとつくづく思う。

車にしろ、電化製品にしろ新しい物が次々と登場し(今でもそうだけど、当時はもっと個性豊かな物達)、ことファッション分野では

それまでアメ横天国だったアメリカの物が徐々に勢力を拡大して

ビームスなんかの品ぞろえも豊富になり・・・そんな時代だ。

アメリカ文化はポパイが教えてくれたけど、若者はそれ以上に情報や物を欲していて、それらを得るためにあっちへ、こっちへと行動した。

インターネットもスマホも、ポケベルすらなかった時代の話だ。

 

そんな昭和は64年で終わり、平成に変わり、とうとう今月を以て平成も終わっちゃう。

「平成最後のなんとかかんとか・・・」って聞かない日は無い位な今日この頃だけど、ちょうどドラマのクール間ってのもあるんだろうけど、何処のテレビ局でも「平成30年を振り返る」みたいなのをやってる。

゛平成の号外100゛とかそんな感じでね。

まぁ、ついつい見ちゃうよね。

震災、天災、オウム事件を代表として総合的にネガティブな事ばかりが印象に残っちゃうんだけど、同感の人も多いと思う平成30年。

逆に、インターネットの普及を筆頭に技術の進歩でそれまででは考えられない位便利になったのは言うまでもない。

家から1歩も出ないで買い物は出来るし、F1だってライブで配信される。

車はぶつからなくなりつつあり、おそらくもうすぐ国会の議事録もAIが瞬時にまとめる時代になるだろう。

 

で、考えた。

新しい出来事や、新しい物が次々と出てくる一方で゛失われたもの゛って何だろうと・・・

自分が感じたそれは、ずばり゛夢゛だ。

 

昭和から平成と言えば、バブルの端境期だ。

敗戦からの意地とプライドをかけた復興、高度経済成長から希望に満ち溢れ、現実となりバブル崩壊とともにそれが崩れ去り、所得は減り続け物価は上がらず、一方では信じられないような多くの情報が手に入り、その結果究極に現実主義、と言うか現実しか見られない世の中になっちゃったんじゃないだろうか?

 

欲しい物はその場で見られ、買え、行きたいところはグーグルマップで見ることが出来て、知らない世界への憧憬や懐疑も持たなくなり、持つ必要もなくなり全ては今ここにある現実のみ。

 

これでは夢なんて見られるであろうはずもないし、もはや見る意味も見いだせないのでは・・・って思っちゃう。

 

「あ~したいな~、こ~したいな~」な願望はもしかしたら漠然とあるのかもしれないけど、頭の中には現実しか存在しないから、したい何かが何だかわからないのかもしれない。

だから、具体的なビジョンや願望が見いだせないんだろう。

逆にモニターの中の世界やVRの経験と現実とが歪んだ形でリンクしちゃったりってのもあったりして。

 

見たい情報、得たい情報がすぐそこにあるから、そこで完結しちゃう。

本当はそこが出発点なはずなのに、得たもので満足しちゃんだよね。

例えば、見た目にインパクトがあってインスタ映えするからって理由で、んっ、スイーツの有名な店に行ってカシャカシャと。

この際味はどうでも良いんだよね、何なら人気があって映えれば美味しくなっちゃう。

「よしっ、ここは1つコレに負けない位インパクトのある物作ってみようじゃないか」とはならない。

次のトレンドを追っかけるだけなんだよね。

もしも、コレをきっかけにしてお菓子作りを始めて、作り方を知ったり創意工夫をしたら素晴らしいのに・・・

 

想像することをやめてしまい、そうして自分と言うものが見いだせなくなり、結果個性が失われ、そうなると何かに頼らないと生きていけなくなる。

だから、どこかで何かが始まるらしいぞ、どこかで何かが流行ってるらしいぞ、ともなれば1点集中、一極集中の傾向が強まる。

スタバのなんちゃらがオープンともなれば、行かなきゃいけない症候群に陥り、千円のコーヒーを飲む行為に満足しちゃう。

あんな人だらけの所に、しかも5時間も待って飲むコーヒーが果たして本当に美味しいのか?と言う発想や自分なりの価値観を想像できない。

元々群集心理があるとはいえ、そこまで時間と金をかけて

「オレ、一体何やってんだ?」って思わないんだろうか?

 

 

そんな訳で

夢が持てなくなり、想像力を働かせられなくなって考えにプロセスがなくなる。

 

一方でインスタなんかの影響で、みんなが持っていた承認欲求がドンドン表面化して来てる中、゛良いね゛の為に胆略的な投稿をしたりも起きてくるんじゃないだろうか?

(うちにも承認欲求の高い店長がいますが・・・)

 

ちまたで良く

゛失われたウン十年゛なんて言われている。

バブルがはじけてからの経済の低迷が続いて今があるけど、失われた゛夢゛は幸いにも物体じゃない。

と言う事は、取り戻せるって事だ。

 

(続く かも)