視線を閉じる | ひっぴーな日記

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よくわからないことを書いてます

まず、自分が見られていると知覚するには、相手を視認しなければならない。

ま、これは当然何だけれど、そもそも「相手は自分を認知できてるのか?」という疑問が残るわけだ。

つまり、見ている=意識しているではなく意識とは眼球で物体を見ている行動とはかけ離れているものであるということにほかならない。
でも人は見られると自身が意識してしまうという現象に陥る。刺激付加理論に近いものだけれど、実際は臨床であるものなんだよね。

簡単に言えば自分が考えている自分、は相手が思っている自分、の摩擦によって結果自意識が発生するのであって、環境による刺激ではなく、個人認識論によるわけだ。

そうするとこまるのは相手が何を考えているのかということだけれどこれが人が存在する限りの永遠の命題。そのためにあの手この手があるというわけ。

そもそも、自分は分かっているという認識は、他人によって、ひいては環境による意味づけできめられるものであるから、自分が思っている思考とは本当に自分がおもったことなのであろうか?という環境個別の矛盾があるわけだね。
その折衷のために信頼関係というものがあるわだけれど、そもそも簡単に言えばこの意味づけ、言えば素朴理論による概念こそが人との間にできる感情であるし、また問題ににもなるというわけ。

関係性の一致、は信頼を返応する頻度によってすり合わせしていき、解決をする。解決できなければ適応規制をする。

というわけで迷った時は信頼できる友人に相談だよって言う話。