「おーっす太一!」
「うおっ!」
いきなり後ろから頭を叩かれて八重樫太一は思いっきりつんのめった。
「いってーな……おう、おはよう永瀬」
通学路は元々永瀬とは正反対で電車でかなりの距離がある。ようやく気付いたかのように咲き始めた桜の住宅街の路地を、学校近くまで歩いていって遭遇することは稀だったがよくあることだった。
その誰もが見惚れるような美少女という言葉がぴったりの永瀬伊織は、やけにテンションが高く、マフラーを外した冬服の上に流れるロングの黒髪がいつもより大人っぽく見える。
「テンション低いよ太一! もう四月中旬だよ!もう半月しかないんだよ! デッドラインだよ! 海に沈められちゃうだよおおお!」
「海に沈められる学校ってどんなだよ……」と太一呟いて永瀬と並ぶ。
永瀬の言っていることは新入部員のことだ。太一の所属する山星高校では四月一杯が勧誘及び入部期限とされているため、あと半月で新入部員がこないとその可能性すら潰えることになる。
「ていうか朝からテンション高すぎだろ……。なんかいいことでもあったのかよ」
「あったよ!」
「なに?」
「朝の卵の黄身が二つだったのだ」
「それはいい話というより凄い話だよな……」と太一が突っ込む。
「ふふーん! いいもーん、この幸せは太一にはわからないだろうからね」
そう言ってまだ八部咲きの桜の下を学校まであと数百メートルを他の生徒と一緒に歩く。
「ま、そんな前置きはおいといて」
「なげえ前置きだな」
「今日は稲葉んはー?」
そう言ってキョロキョロと周りを探し始める永瀬。釣られて永瀬を見る登校中の生徒。その光景を太一は面白いなあ、と思いつつ嘆息して言う。
「そう毎日毎日一緒に登校出来る訳ないだろ。稲葉は電車だし、時間が合わない日だってあるだろ」
実際『一緒に登下校』というのは彼女になったのだから、太一も一応気にはしていた。登校は今でも何回かしているが、文研部に所属している以上、帰りはどうしても二人になる事が出来ない。気を利かせてくれることもあるがそれも気恥ずかしい。
「なんだよー、愛が足りないよ太一! 愛が軽いよー、恋と書いて愛!」
「書かねえよ」
一応突っ込んで少し無言で黙々と並んで道を歩く。そういえばクラス替えで一緒になれなかったことも要因としてはあるのかもしれない。
それに彼女になってから『異常な心配性』に拍車がかかった気がするし、でも恥かしがり屋な所も変わっていなくころころかわる稲葉にどう接していいかわからない。でもいつだったか桐山に十分バカップルだから心配しなくていいよと言われたが。どうなのだろう。
主観と客観は違うっていうし。そのへんのところを――
「なんだか取り残されちゃうよね」
「…………ん?」
ぼーっと考え事をしていた太一は先ほどのテンションとは違う、永瀬の様子に反応出来なかった。
「えっと、なんだ、どうかしたのか?」
「いや……なんつーかなー、こんな時期だし、みんな変わって言っちゃうっていうかさー。別にそれがどうしたってわけじゃなくて、なんていうか凄いなって思うわけ」
「…………ああ」
瀬戸内の一件からまだ数週間、あの件で永瀬は変わった。変わったのだろうか、太一が断言は出来ないけれど、きっと変われたのだろう。
でもあの過去がある永瀬は容易に変われるのか?
いつも他人が期待する自分を演じていた永瀬伊織は変われるのだろうか。
いや、決して変われないのだろう。なぜなら、稲葉の言ったとおりそれが全部永瀬なのだから。
普通を演じる必要は、もうないはずだ。
そもそも、変わる必要がないのだから。
「色々ごちゃごちゃに考えてたのはさー、つまり稲葉んと同じだったって今は思うんだよね。私っていうのは一体何って言うことじゃなくて、私っていうことが私を決めているっていうこと。それでその今の私は、まだ私になりきれてないなーとか。まー、そんなことを思うわけなんデス」
隣で歩く永瀬はにっこりと美麗な笑顔を太一に向けた。それに太一は少し微笑んで、
「おう、お前は確かに永瀬伊織であることは俺が証明するよ」
きっと他の三人もそういうだろう。あの部のメンバーそんなことぐらい簡単に解決できる。
「ていうかなんで急にそんな話始めた?」
当然の疑問を太一は口にすると永瀬はふむ、と流れる動作で手を形のいい顎につけ、首を捻り、
「なんでだろう?」
「いや、俺に聞かれても…………」
もしかしたら、まだ色々迷っているのかもしれないと、ふと太一は思ったが、
「ああ、稲葉んのこと考えてたらそうなったんだった、うん」
「どういう思考経路でそうなるんだ……」
太一が言うと永瀬は片手を太一の前に突き出す。
「ていうかそんな話してるばやいじゃないんだよ太一君!」
「お前今噛んだろ」
「あと半月でどうにかして新入部員をゲットするにはやっぱビラと張り紙だけじゃーなー」
突っ込みをスルーして憤る永瀬。
「まあ、決まりだからな」
ふぅ、やれやれと首を振る永瀬。さっきまでのちょっと落ち着いた雰囲気がすっかり霧散していた。もうすぐ学校に着きそうなところで太一は稲葉の姿を見つけた。なんだか稲葉はびっくりしたような顔した後、少し恥らうように下を向くと早足で永瀬、太一の傍まで来た。
そこでいつも通りの顔に戻り、
「お、おはよう太一、伊織、」
「おはよう稲葉ん! て・い・う・か新入部員、こね――――――――――!!」
「朝からうるせー! 伊織!」
稲葉に抱きつきながら叫ぶ永瀬の光景でさっきまでのシリアスな雰囲気は霧散した。