『バーソは如何にして異端の基督信徒となりし乎』。 | barsoのブログ

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 わたしはどうして異端のキリスト教徒である「エホバの証人」になったか。


 それは、俗世を離れた顔をした男性伝道者が訪ねてきて、家庭聖書研究を勧められ、毎週土曜日に学んでいるうちに、聖書が良書であり、神が存在していることが論理的に納得できるようになったからです。

 昨今「エホバの証人」は統一教会とごっちゃにされていますが、以前は宗教感のまったくない、アメリカ発祥の真面目な聖書研究グループと見られていました(私は30年以上所属して20年前に離脱)。

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 今回は、キリスト教会の「神」は、聖書の「神」とは全然別物だという話です。
 すなわち『三位一体』の神は非聖書的だという話ですが、どうしてそうなったのか、なぜ間違っているかを論理的に考えるのが面白いのと、正統派や多数派が必ずしも正しくない事例の雑学として知るのも一興かと思っています。

                 ●

 ●正統派教会の第一条件は、イエスを『三位一体』の神様と信じることです。
 一般の教会は、旧約聖書に出てくる神エホバ(ヤハゥエ)を「父なる神」とし、イエスを「子なる神」とし、聖なる霊(Holy Spirit)を「聖霊なる神」とする『三位一体論』を主要な教理としています。[註1]
 しかし大前提として聖書の神エホバは『十戒』の第一戒で「汝、我の他に何ものをも神とすべからず」と宣言している「唯一の神」ですから、神のペルソナ(位格≒パーソナリティ)が三者あるとするなら、一神教が多神教になってしまい、大罪になります。(出エジプト記20:3、申命記6:4、ヨハネ17:3)
 そこで、三者とも神性を持つ「同質」の神であり、三者は「一体」となっているから「一つの神」であるとしたのが『三位一体論』です。はっきり言えば、イエスを強引に神様にするための後付けの教理です。[註2]

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  父なる神と子なる神と聖霊なる神は一ではIS NOTないが、それぞれは「神」と同質ISだとする図。

 ですが、1+1+1=1という論法ですから、理性で受け入れることは難しく、そのため教会では『三位一体論』は信仰によって受け入れるべき神秘的な奥義だと言われています。[註3]


 ●『三位一体』の神は、なぜ取り入れられたのか。
 この言葉は聖書には出ていませんが、古代の異教(聖書的には「邪教」です)にあった考えで、古代バビロニアやアッシシア、エジプト、ギリシア、ローマなどで三つ組の神が崇拝されていました。[註4]
 そんな異教の教えが教会内に芽生えていったというより、意図して取り入れる勢力が力を持ってきて、イエスを『三位一体』の神様に祭り上げたのです。

 なぜそうしたかは、第一にキリスト教会は、発足時はユダヤ教から「異端」と呼ばれて侮蔑され、ローマ帝国からは迫害されていた、ごく少人数の弱小教団だったので、大工の息子だったイエスを神格化したほうが教会の権威が上がるからです。(使徒 24:14)(オウムや統一教会、幸福の科学、天理教などの新興宗教は、教祖を「神の化身」とか「キリストの再来」「生き神様」などと呼んで神格化しています)[註5]
 第二は、異教の教えを取り入れたほうが異教徒をキリスト教に勧誘しやすくなるからです(先の都知事選では蓮舫さんは共産党と組みましたが、共産主義は民主主義からすれば邪教の思想でしょう)


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  三位一体の神を象徴的に描いた教会のステンドグラス https://00m.in/YQIGY


 実際、カトリックの宣教師たちは中世以降、派遣先の土着宗教とキリスト教を融合させてきました。日本ではデウス[神]を大日如来としたり、マリアの観音像を拝ませたり、天国を極楽浄土と説明しました(日本でも奈良時代以降、中世の本地垂迹説など古来の神道と外来の仏教が折衷融合されてきました。しかし明治初年の「神仏判然令」で神仏習合は禁止され、神道が国教化されましたが、戦後GHQによって解体)


 ●『三位一体論』は、だれが取り入れたのか。
 『三位一体』という用語は神学者テルトゥリアヌス(160年頃 - 220年頃)が初めて用いたとされていますが、教会内では、イエスを「子なる神」だと唱えるリベラル傾向の信徒が力を持ってきて、伝統的な「唯一神エホバ」を信じる保守派の信徒[アリウス派]との論争が長く続きました(女系天皇容認派と男系天皇絶対擁護派の対立と似ています)

 しかし時の権力者の思惑によって『三位一体』派が勝利します。
 西暦381年、ローマ皇帝テオドシウス1世―――この人は東西に分裂していたローマ帝国を実質的に一人で支配した最後の皇帝となった―――がコンスタンティノープルで公会議を主宰し、それまで決着が付かなかった『三位一体論』をキリスト教の基本教理であると最終裁定しました。当時、宗教上の分裂がローマ帝国に脅威となっていたので、政治的な判断をしたのです。

 そしてキリスト教を国教とし、それ以外の考えは厳しく鎮圧したため、『三位一体論』を受け入れない宗派は衰退していきました(が、現在でも少数残存しています)。[註6]

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    Anthony van Dyck, 1620(住民を大量虐殺したテオドシウス帝がミラノ主教に謝罪)


 ●イエスと使徒たちが亡くなってから、教会は徐々に世俗化していった。
 教会は、ローマ帝国の全域に拡大するにつれて世俗化していきました。異教徒の教えや風習が取り入れられ、聖書の厳格な倫理観がだんだんゆるめられていきました。
 例えば「クリスマス」は、西暦325年の公会議で、ローマ暦の冬至の日である12月25日と正式に定められましたが、それは元は不滅の太陽を祝うミトラ教の祝日でした(ブリタニカ百科事典)。[註7]

 そうした教会の宗教的堕落については聖書に予告されていました。
 使徒パウロと使徒ペテロは「教会内に背教が生じ」「偽りを語る者や偽善者が現れ」「偽教師が現れる」と述べていて、実際そのような者たちが1世紀後半から現れています。(テサロニケ第二 2:3、テモテ第一 4:1-3、ペテロ第二 2:1-3、使徒20:30)

                 ●

 

 以上、正統派や多数者の考えは必ずしも正義ではないという話でした。
 大手マスコミの報道、SNSの一斉発信、世界的な思想潮流、WHOの指導などは正解ではないかもしれません。重々気を付けたいものです。

 (『三位一体論』には致命的なウイークポイントがあり、その「論」の間違いは聖書から容易に論証できますが、それについては近日公開予定とします)








《備考》―――――――――――――――――――――――――――――――――
[註1] カトリック百科事典はこう述べている。「三位一体はキリスト教の中心的な教理を示すために採用された語である。したがって、アタナシウス信経(信条)の用語によれば、『父は神であり、子は神であり、聖霊も神である。しかし、三つの神がいるのではなく、一つの神がいる』。この三位一体において……それらの位格は共に永遠で、同等である。いずれも創造されたのではなく、万能である」。

[註2] イエスは「すべてのものが造られる前に生まれた」とあるので、神の最初の被造物であり、それゆえに「神の子」と呼ばれる。(コロサイ1:15、ルカ1:35)むろん、唯一の神は「始まりがなく、終わりもない」。(詩編90:2)

[註3] カトリック教会では「神は自身が三位一体であることを啓示・暗示してきたが、神自身が三位一体であることは理性のみでは知り得ないだけでなく、神の御子の受肉と聖霊の派遣以前には、イスラエルの民の信仰でも知り得なかった神秘である」とされる。正教会でも「三つが一つであり、一つが三つというのは理解を超えていること」とし、「三位一体」についても「理解する」対象ではなく「信じる」対象としての神秘であると強調される。

[註4] フランスのラルース神話百科事典は、メソポタミア地方の三つ組の神の一つについて次のように指摘している。「宇宙は三つの地域に分けられており、各々一人の神の勢力範囲となった。『アヌ』の分け前は空であった。地は『エンリル』に与えられ、『エア』は水の支配者となった。彼らは一緒にされて偉大な神々の三つ組を構成した」。また、古代エジプトには、オシリス(冥界の王)とイシス(豊穣の女神)と彼らの息子ホルス(鷹=太陽)の三神がいた。

[註5]「エホバの証人」は設立者(C.T.ラッセル:1852-1916)を神格化してないが、信者の管理組織である[ものみの塔聖書冊子協会]の統治体(本部委員=現在9名)を、神の聖霊が注がれた「キリストの代理機関」と称し、特に近年は神格化を加速させてきている。

[註6] 現在、『三位一体論』を否定する教会は、ユニテリアン、モルモン教[末日聖徒イエス・キリスト教会]、エホバの証人[Jehovah's Witnesses]、クリスチャン・サイエンス、キリスト・アデルフィアン派などがある。

[註7] US・カトリック誌は「クリスマスをその異教の起源から切り離すことは不可能である」と述べ、さらにこう続けている。「ローマ人に人気のあった祭りはサトゥルナリア祭で、この祭りは12月17日に始まり『征服されることのない太陽の誕生日』(ナーターリス ソーリス インビークティ)である12月25日に終わった」。

※ 「異端」とは、正統から外れていること。また、その時代に多数から正統と認められているものに対して、例外的に少数に信じられている宗教・学説などをいう。「カルト」とは、特定の教祖や教義を熱狂的に信じる小集団のことだが、現在では宗教団体を中心にした反社会的な組織や団体を指して使用される。
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