森鴎外の『高瀬舟』の喜助は天のオーソリティに身を委ねた。a | barsoのブログ

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  高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。
 この印象的な書き出しから始まる森鴎外の短編小説『高瀬舟』。
 江戸時代、高瀬舟は物資を運ぶために、また、人目のない夜は罪人を運ぶために使われていた。

 
 高瀬川は江戸時代初期(1611年)に京都の中心部と伏見を結ぶ物流用に開削された運河。

 今回は、小説『高瀬舟』の感想ですが、ちょっと切り口を変えて、物事の善悪是非を決める "オーソリティ(権威)“ は何かという観点から書いています。

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 (あらすじ)
 知恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕に、高瀬舟に乗せられた喜助三十歳は、弟殺しの罪で島流しにされるのだが、悲しそうな顔をせず、鼻歌でも歌いそうな明るい顔をしていたので、護送役の初老の同心・羽田庄兵衞が奇異に感じて、そのわけを尋ねた。
 喜助が答えるには、じつは小さいときに親を亡くしてから、弟と一緒に力を合わせて必死に生きてきたが、弟が病に倒れたので養ってきた。あるとき掘立小屋に帰ったら、弟が「早く死んで少しでも兄きに楽がさせたい」として自殺を図って血だらけになっていた。
 弟は、刃物を喉に刺してひどく苦しがっており、早く抜いて楽にしてくれと言って怖い顔で睨むので、「しかたがない。抜いてやるぞ」と言ったら、弟の目の色は晴れやかになった。そして覚悟を決めて刃物を引き抜いたところを、近所の老婆に見られて御用となった。
 ところが、牢では働かないで飯を食わせてもらったうえに、島に行くにあたってはお上の慈悲で二百文(約5000円)も頂いた。こんな大金を懐に入れたのは生まれて初めてで、これから行く島にしても鬼がいるわけではないだろうから、これを元手に仕事をしようと「楽しんでおります」と言って、喜助は口をつぐんだ。

 同心の庄兵衞は、喜助のそれまでのどん底人生に同情し、さて、これが果たして弟殺しになるだろうかと考えた。
 喜助の弟は、そのままにしても、どうせ死んだはずだ。喜助はその苦痛を見るに忍びなかった。苦しみから救ってやろうと思って弟の命を絶った。それが罪であろうかと思うと、そこに疑問が生じて、どうしても解けなかった。


 小説のラストは、美しく余韻を残し、滑らかな人生を予感させている。
 (原文を現代仮名遣いに修正)
 庄兵衞の心の中には、いろいろに考えて見た末に、自分より上のものの判断に任す外ないと云う念、オオトリテエに従う外ないと云う念が生じた。庄兵衞はお奉行樣の判断を、そのまま自分の判断にしようと思ったのである。そうは思っても、庄兵衞はまだどこやらに腑に落ちぬものが残っているので、なんだかお奉行樣に聞いて見たくてならなかった。
 次第に更けて行く朧夜(おぼろよ)に、沈默の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべって行った。
(了)

 物語は、桜散る知恩院の鐘が鳴り響く春の夕べの高瀬川で始まり、夕闇が次第に更けて夜も朧となり、「高瀬舟は、黒い水の面をすべって行った」と非常に情緒的な叙述で終わっている。
 「すべる」とは "障害もなく 滑らかに移動する" ということなので、鴎外はこの語を使うことで、喜助の遠島への旅路に朧ながらも "天からの慈悲" があるかのように暗示させている―――のであれば、この話は「オオトリテエ」がキーワードになるのかもしれない。

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 「オオトリテエ」とは英語「オーソリティ(権威)」のフランス語である。
 庄兵衛は喜助の件については「オオトリテエ(の判断)に従うほかない」と考えた。これは文脈では「自分より上」の "権威" である「お奉行樣」を指している。
 この小説が書かれた大正五年頃は、「安楽死」や「自殺幇助」については、その賛否の結論が出てなかった。軍医でもあった鴎外は、その判断は「オーソリティ」である国家の権威に任せるほかはないと考えていたのだ。


 死に関連する「オーソリティ」なら、藤村操の「オーソリチィ」を思い出す。
 すなわち、明治三十六年、藤村操(十六歳)が華厳の滝に飛び込む直前に、かたわらのナラの木に墨字で書いた遺書『巌頭之感』に「オーソリチィ」のことが触れられていて、その中にこんな一文がある。

 

 ホレーショの哲學 竟(つい)に何等のオーソリチィーを價(あたい)するものぞ。  萬有の眞相は唯(た)だ一言にして悉(つく)す、曰(いわ)く、「不可解」。
 (直訳)
 ホレーショの哲学は、結局は何らの権威に値するものか? 否、値しない。
 万物の真相は、ただひと言で言える、すなわち「不可解」であると。


 ホレーショとは、シェークスピアの『ハムレット』の友人の名だが、ハムレットは、暗殺された父の亡霊を見たあと、亡霊の声に驚くホレーショに、「天と地の間には、おまえなんぞの哲学では(あるいはいわゆる哲学では)及びもつかないことが沢山あるのだよ」と語った。
 つまり、ハムレットは、天と地の間には人間の哲学なんぞ及ばない奥深さがある(だから父の亡霊が不可解だとしても歓迎しなければならない)と言ったのだが、藤村操は、人間の哲学なんぞは何らオーソリチィーには値しない、天と地の真相は「不可解」である(だから生きていくのは意味がない)と正反対に考えたのだ。

 『高瀬舟』の同心・庄兵衞はいかにも小役人らしく、難しい問題はオーソリティである「幕府」の判断に従えばいいと単純に考えた。
 しかし人生常に問題だらけで極貧しか知らなかった喜助は、牢に入れられたときに「お上」というオーソリティの情けを感じ、さらに高瀬舟がするすると滑らかに滑っていく先には、京とは違って鬼はいないだろう暮らしが待っているのだから、ぼんやりと一点の光が見え、その天の "権威" ないしは "運命" に身を委ねようという気持ちになったのではないか―――と思った次第です。

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 さて、いま多くの人は、神様や教祖、世の権威者や成功者、崇高な政治理念や利得の大きい経済手段…といった自分の好みのオーソリティに従って生きています。あるいは自分自身をオーソリティとして、ひとの言うなりにならずに生きていきたいと思っている人もいるでしょう。どう生きるかは自由です。

 ちなみに、私バーソは喜助のような過酷な暮らしも経験し、庄兵衛のようなまあまあの生活も経験しましたが、長年、宇宙を統御している "見えないオーソリティ" を探し求めてきて、いまは見つけたと思って納得しているので、その "上なる権威" を信頼し(頼らず、崇拝せず、恐れず)自由意志を行使して、できるだけ滑らかに生きていこうと思っています。






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●小説『高瀬舟』には、「知足」と「安楽死」の二つの問題をどう統一的に解釈するかという課題がありますが、ここでは消極的な幸福感である「知足」については深入りをしていません。
 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/691_15352.html

●過去記事も参考にどうぞ。→人生不可解という遺書。藤村操の『巌頭之感』(2017年06月10日)
 https://barso.blog.fc2.com/blog-entry-324.html

●『ハムレット』第一幕 第五場「城壁の上の通路、別の場所」の対訳です。
 http://james.3zoku.com/shakespeare/hamlet/hamlet1.5.html
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