恋は落ちる。愛は育てる。恋愛はどっちだ。a | barsoのブログ

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 「恋に落ちる」という表現は "fall In love" の直訳でしょうが、適切な良い訳のように思います。
 しかし、なぜ「落ちる」とネガティブな言い方をするのでしょう?
 「恋に燃える」とか「恋に焦がれる」とでも言ったほうが良くないですか。
 それにまた、「愛に落ちる」と言わないのはなぜでしょう?

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隠「熊さん。以前、『初夏の東京は世界の都市の中で一番きれいだ』と言った作家がいたが、こうして街路樹の鮮やかな新緑を見ながら歩くのもオツなものだねえ
クマ「はい、空も青く澄み切ってます」
隠「ところが、『東京には空がない』と言った女性もいたよ
クマ「ひょっとしたら、その女性、恋をしたことがねえとか」
隠「うむ、恋は "するもの" というより、 "落ちるもの" と言われているが、なぜだろうね?

クマ「そうですね・・・ご隠居。落とし穴に落っこちるときは、途中で止められねえし、落ちてしまったら抜け出せねえ。恋も抜け出せないほど強い想いだってことじゃねえですか。知らんけど」
隠「うむ、『恋は思案の外』と言う。堕落の『堕』と書いて『恋に堕ちる』と書くと、もうまわりの状況はどうでもよくなって、理性が堕落状態に陥ることを表現しているのかもしれんな
クマ「ってことは、恋には少し後ろめたさがあるってことですかね」
隠「うむ、広辞苑には、こんなふうに書いてあったよ。恋とは『一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。また、そのこころ。特に、男女間の思慕の情』とな」(2008年第六版)
クマ「あら、恋とは、一緒に生活できない人や亡くなったひとを切なく思うことなんですか」
隠「広辞苑は、本来の意味はどうだったかを重視する傾向がある。奈良平安の時代は、今ここにいない人を強く悲しく思う感情を『恋』と言ったみたいだな
クマ「恋とは男女がただ好きになることじゃねえんだ」
隠「次の版では『男女間』という文言が削除されたそうだが、それにしても恋は双方向の愛情ではないかもな。『互いに愛し合う』とは言うが、『互いに恋し合う』とは言わない
クマ「あら? 『恋仲』とか言わなかったですか。でもまあ、恋と愛とがちょっと違うのはなんとなく分かります。『恋に落ちる』とは言うが、『愛に落ちる』とは言わねえし」

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隠「三遊亭小遊三が『笑点』で、『恋は落ちる』ものなら『愛は溺れるもの』だと言ってたな
クマ「ああ、俺もどばどば愛の中に溺れてみてえ」
隠「しっぽりじゃなく、どばどばか。ま、お前さんには合っているが、しかし愛を表すのはそう簡単ではないぞ。『恋は一人で、愛は二人で育てる』とか、『魂は磨くもので、愛は育てるもの』と言われているように、愛は育てるものだよ
クマ「愛はどうやって育てるんですか」
隠「愛の話なら、二千年前に書かれた本に優るものはない」
クマ「聖書ですね」
隠「そう。こう具体的に書かれている。いいかな、『愛は、忍耐強く、親切で、ねたまず、自慢せず、高ぶらない。愛は、無作法をせず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。愛は不義を喜ばず、真実を喜ぶ。愛は、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える』と愛の表し方は十五もある。熊さんや、この中で一番強調されているのは何だと思う?」(コリント第一13章4~7節)
クマ「ええと、『親切』ですか」
隠「そうだな、『親切』などの善行を他者にすることが愛だと思いやすいが、ここでは『親切』以外はすべて自分自身への戒めなのだよ。とりわけ強調されているのは『忍耐』だ。最初の『忍耐強い』に、『すべてを忍ぶ』と『すべてに耐える』もそうだが、『恨みを抱かない』も忍耐の中に入るかもしれん。人間関係では大抵のことは忍耐し、我慢し、辛抱すれば解決するが、それも愛なんだな
クマ「うーん、忍耐だって難しいのに、こんなに沢山あったら、俺には難しくて無理です」
隠「恋は出会いさえあれば受動的に芽生えるから難しくはないが、ただ、自分ではコントロールできない感情だ。一方、愛はいい出会いがあっても関係を続けるのは難しいが、しかし愛は自分で能動的にコントロールできるのだよ
クマ「愛を自分でコントロール?」
隠「そう、努力して、愛の特質を "育てる" ことだ。『星の王子さま』で知られるサン=テグジュペリは、『愛はお互いに見つめ合うことではなく、共に同じ方向を見つめることである』と言った。愛は二人が同じ思いを持つよう努力すれば、愛は育っていくということだが、たとえ相手がわがままで共に同じ方向を向かないとしても、自分のほうは愛を育てようとするのが愛なんだな
クマ「うーん、恋は落ちる、愛は育てる、か」

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隠「新明解国語辞典の注釈が面白いぞ。恋とは『特定の異性に深い愛情を抱き、その存在を身近に感じられるときは、他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感・充足感に酔って心が昂揚する』と注釈するのはいいのだが、その続きには、『一方、破局を恐れての不安と焦躁に駆られる心的状態』と書いてあって、恋は破局すると決めつけ、不安と焦燥感があると言っている
クマ「新明解の作成者は、あまりモテなかったようですね」
隠「三省堂国語辞典も面白いぞ。恋とは『男女の間で、好きで、会いたい、いつまでもそばにいたいと思う』まではいいが、その続きに『満たされない気持ちを持つこと』とある。この辞典の作成者も、心の中に憧れの気持ちがくすぶったままで終わったようだ。初恋の思い出が切なく、ほろにがいのは、そのせいかな」 クマ「ご隠居、なんだか遠い目をしてますね。俺は、一度でいいから、野菊のごとき女性と淡いほのかな恋がしてみてえです」
隠「伊藤左千夫か。少年は十五歳で、民子は二つ年上の十七。最後に別れた場所は矢切の渡しだった
クマ「はい、男はつらいですねえ」
隠「熊さんは、女を落とした経験がないな
クマ「俺の頃は、『男女十七歳にしても席を同じゅうせず』でしたから」
隠「今の時代はいいなあ・・・ところで、熊さんはさっきから下ばかり見て、目の玉がキョロキョロ泳いでいるが、なにを探している? 銀杏(ぎんなん)拾いは秋だからまだ早いよ
クマ「はい、落ちたばかりの恋が一つぐらいころがってないかと思って」

 

 


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大正浪漫を代表する竹久夢二(1884-1934)の甘く切なくやるせない作品を借用しています。

「待~てど暮~らせど」と歌いだす「暮ら」の部分に、若干の恨みがこもっています。
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