シャミッソーの『影のない男』は、何を語っているか。 | barsoのブログ

barsoのブログ

世の中に人生ほど面白いものは無し。いろいろな考えを知るは愉快なり痛快なり。
FC2にも共通の姉妹ブログを持っています。タイトルは 『バーソは自由に』 です。
http://barso.blog134.fc2.com/

 

 「影が薄い」とは、存在感が弱い、命が短そうに見える、という意味です。
 では「影が無い」となれば、人はどうなるでしょうか。

 ドイツ・ロマン派の詩人アーデルベルト・フォン・シャミッソー(1781-1838)が、自分の影を手放した男の話を短編小説にしています。
 この作品は、アンデルセン『影』やホフマン『大晦日の夜の冒険』、藤子・F・不二雄『ドラえもん』、村上春樹『海辺のカフカ』に影響を与えているそうです。

  syami5.jpg

        ――――――――――――――――――――

『ペーター・シュレミールの不思議な物語(影をなくした男)』
 (あらすじ)  怪しげな灰色の服の男から、「あなたのその影をおゆずりいただくわけにはまいらないものでしょうか」と乞われたペーター・シュレミールは、何でも好きなものを出せる「幸運の金袋」と引き換えに自分の「影」を渡します。そして貧乏人から一日で大金持ちになりました。

  syami93.jpg

 ところが行く先々で、影がないことに気付いた人々から罵られ、石を投げられ、日中は出歩けなくなり、婚約者には捨てられたので、1年後に再会した灰色服の男に、あの取引はなかったことにしてほしいと詰め寄ったら、ならば「影」と「魂」を交換する契約書にサインしてくれと言われます。
 その灰色服の男は、ゲーテの『ファウスト』に出てくるメフィストフェレスと同じく、じつは人間の魂が欲しい悪魔だったのです。

  syami78.jpg

 シュレミールは、その悪魔の誘惑をきっぱり断わったのですが、さすが頭脳優秀な悪魔は巧みな反論をしてきます。
では、おたずねいたしますが、あなたの魂とやらはいかなるシロモノですかな。
ご自分の目でごらんになったことがおありですか? あの世にいってから、そいつを元手に何かを始めるおつもりですかね。
 むしろ生あるうちにですな、魂といわれるわけのわからんシロモノ、電動力とも分極作用とも、何ともえたいの知れぬ講釈つきのシロモノと現実のものと取り換えておくほうが、よほど利口ではありませんかね


        ――――――――――――――――――――

 悪魔はいつも、目に見える現世的な利得に訴えてきます。
 人間、死んだら何もかも終わりじゃないか、それよりも生きている時を楽しめ。魂なんてあるかどうか分からないものを信じるより、実際に利得だと分かっていることを信じるほうが賢明だ、と唯物論お得意の損得勘定で説得しています。

 この考えは、「もし侵略されたら、国の主権や尊厳を護って死ぬより、自分の生命を守るほうが賢い生き方だ」と言う人の思考と似ています。
 私も二十代の終わりに、大手広告代理店を辞めて聖書の『狭き道』を歩もうと決めたとき、親しかった同僚から「そんな一銭にもならないことをなぜやるの?」と言われたことがあります。

                 ●

 この物語はネットでは、いろいろな解釈がされています。
 1)影=祖国、主人公=作者という解釈。作者シャミッソーはフランス系ドイツ人だったので、ナポレオン戦争では2つの祖国の板挟みとなったのだろう、と作品発表当初から思われた。つまり影(民族的帰属)がなくても、魂(良心)を失わないなら人間は生きていける。
 2)影は無くても別に困らないものに思えるが、実際には不可欠なものである。すなわち影とは生きるうえで大切な尊厳とか心の比喩であり、人は物質的な誘惑に負けてはいけない。
 3)ゲーテの書いたファウストとは違い、シュレミールは極めて人間的で、たえず反省しつつ、軽はずみだが、愛すべき人間である、と訳者が書いている。その彼が悪魔から誘惑されたということは、シュレミールの魂は高潔なクオリティを備えていた
 4)心理学的には、人が向き合うことを拒絶し、抑圧した自分自身の否定的な側面を影(シャドウ)と呼ぶ。他者のなかに自分と同じ欠点を見ると、非常に気に障るが、人は自分の影と向き合うべきだ。
 5)この話では、人々が影のない人間を異常に気にしている。世間の人が「或る種のルール」の下に生きているなかで、自分だけがそのことを知らずに、あるいは知っていて異端者として生きている――という奇妙な不安が底流している。


 しかし悪魔の真の目的は「影」ではなく、「魂」を手に入れることでした。
 主人公シュレミールのその後の行動を見ると、ヤケになり、「幸運の金袋」を底なしの穴に投げ捨て、「影」がないまま独りで旅に出るのですが、履きつぶした靴の代わりに買った古靴が偶然にも「一歩で七里歩ける魔法の靴!」だったので、世界中を自然研究家として歩き回る新しい人生が始まりました。

  syuani97.jpg

 著者シャミッソーは植物学者でもあり、世界一周の旅に出て、帰還後はベルリン植物園園長になっています。ですから要は、物質欲や名誉欲や世間のトレンドなどに流されず、自分の本質である「魂」の欲求を第一にし、自分のやりたいことをやるのがいい人生である、と言っているようにも思えます。
 彼は影と金と恋人とすべてを失う経験をしましたが、かえって気分一新。人生の新しい道を見つけたのです。

                 ●

 シュレミールの名は、東欧系ユダヤ人の共通語イディッシュでは「ドジな男」の意で、民話や小話によく登場するそうです。
 落語の与太郎を思い出しますが、トルストイの『イワンの馬鹿』では、王になったイワンも人民もみな馬鹿で、だから不満を言わず、よく働き、衣食住に満足していました。悪魔がいくらマネートラップで誘惑しようとしても、誰も金を欲しがらず、悪魔は最後に穴に吸い込まれて物語は終わります。

 いまの時代、金儲けと口がペラペラうまいのが利口なのか、世間では影が薄くても自分の好きなことをして生きるのが利口なのか―――人間にはどちらでも選べる自由があるのは有難いことです。影のない「光」志向で生きて、ちょっと “陰翳” のある人に見えるのも良さそうではありませんか。




―――――――――――――――――――――――――――――――――――――  娼婦がホフマンの影を欲しがるオッフェンバック作曲の「ホフマンの舟歌」。

 未完のオペラ『ホフマン物語』の第4幕では、運河にゴンドラが行き交うヴェネツィアの歓楽場の豪華な館で、高級娼婦のジュリエッタ(クリスティーネ・ライス)と、じつは女神ミューズであるホフマンの親友ニクラウス(ケイト・リンジー)が、この「ホフマンの舟歌(原題:美しい夜、おお、恋の夜よ)」を歌います。なお、ホフマンとは実在の詩人ホフマンのことです。
 ゴンドラの船長は、娼婦ジュリエッタをダイヤと引き換えにホフマンを誘惑させるように仕向け、彼女の心の支えとしてホフマンの「影」が欲しいと言わせます。
 この曲の甘く叙情的なメロディは、イタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』(1997年)やディズニーのコメディー映画『Birds of a Feather』(1931年)にも使われています。

 

 ※挿絵はジョージ・クルックシャンク(1792-1878)。画像出典はGOETHEZEIT PORTAL 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――