じつは時間は止まっていて、人間が動いている。a | barsoのブログ

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 安倍元総理が選挙演説中に暗殺(殉職)されました。
 しかし安倍さんほど、内外の評価がかけ離れた首相はいないでしょうね。世界中の首脳からは非常に好かれ、国内の一部からはひどく嫌われ、憎まれました。

 スピリチュアルな観点では、誰の人生にも死にも意味があります。特に安倍さんの場合は、自身の奥深いところで自らの信念を全うしようと考え、日本にとってより良い結果をもたらすべく、あんな目に遭ったのだろうと思っています。
 それにしても67歳での突然の謀殺。人生の「時」ははかなく、哀しいものですね。

 ヘンリー・ヴァン・ダイク(1852-1933)の有名な詩 "Time Is"(時は)の第2部は、「時」とは人の感情によって長さや速さが異なることを示しています。

 

 

“Time is
Too slow for those who Wait,
Too swift for those who Fear,
Too long for those who Grieve,
Too short for those who Rejoice,
But for those who Love,
Time is not.”


(日本語訳)
時は、
待つ者には遅すぎ、
恐れる者には速すぎ、
悲しむ者には長すぎ、
喜ぶ者には短かすぎる。
しかし、愛する者には、
時はそうではない。


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 結語の「時はそうではない」とは、愛する者にとっては「時は止まっている」、もしくは「時は永遠(Eternity)である」という意味ですが、それ以外の者にとっては「時はただただ勝手に過ぎ去る」もののようです。

                  

 しかし、じつは「時」は「過去「から「未来」に一方通行で流れているのではなく、いま「現在」がずーっと続いていて、人はこの地球上の相対性という現実の中で「時」を動きや流れとして経験している―――つまり「時」や「出来事」は重なり合って、同じ「時間」に起こっていて、「現在」の他に「時」は無い、と精神世界では言われています。


 ニール・ドナルド・ウォルシュ著『神へ帰る』の非常に興味深い考えです。

 

 贅沢な書斎に入ったとします。
 最初に目にとまったのは等身大の裸像かもしれない。次は巨大なクマのぬいぐるみ、大画面テレビに関心は移り、心は即座にそちらに行く。そして部屋を見まわして、それほど印象的でない小さなものにも目を向ける。
 最後に部屋の中央にある書棚に近づいたら、ちょうど中段の目の高さにある本の題名に視線がとまる。じつは部屋に入ったのは、それを探すためだった。裸像が目にとまったから、そちらに近づいたが、探しに来たのはその本だったのだ。
 あとになり、この出来事を再現するとき、本が「ようやく見つかった」と言うかもしれない。しかし、もちろん「最初に見つけた」ということだって充分にあり得た。探していた本はずっとそこにあって、自分が見つけるのを待っていた。「ようやく」現れたのではなく、ずっと本はそこにあったのだ
 だが、自分の目には見えなかった。そっちを見なかったから。そっちに近づかなかったから。

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 しかし、その部屋のすべてはそこにあった。すべては同時に存在していた。人が発見し、連続的に経験した瞬間は、本当は「連続同時」なのだ
 つまり「究極の現実」では、物事は人が見る前からそこに存在している。同時に多数の可能性が存在し、想定できるあらゆる結果は、たった今、ここに存在している。人は、自分の考え方によって、その中から一つのことを選択している。
 時間とは過ぎ去るものではなく、人がこの部屋を通るように、その中を通るものだ。時間は「在る」とか「進む」というが、じつは時間はどこにも行きはしない。進むのは人間で、人間が「時間の中を動く」のだ
 すべては一時に起こっているが、相対性の地球に住む人間には、連続的に起こっているように「見える」。          (166-177ページ抜粋)


  じつは動いているのは自分であり、時間ではありません。
 現代人は、猛スピードで宇宙旅行をして帰ってきたとき、自分は10歳しか年をとっていないのに、地球にいた友人は30歳ほど年を取っているかもしれないことを理解し始めています。
 「時」は、物体と物体の間に存在する空間との関係にある「相対的な概念」で、人間が頭脳で作り上げたものです。
 アインシュタインは、動いているのが「時」ではなく一定率で場を移動している自分自身であるなら、時間を変えるには物と物との間の「場」を変更するか、移動する「速度」を変更すればいい、ということを理論化しました。それが「一般相対性理論」です。

 人間が定めた「年・月・日・時間」にしても、それは空間の中の動きを計測する方法に過ぎず、「過ぎて」ゆくのは時ではなく、対象物です。

 つまり「時」は垂直かつ継続的に存在しているのではなく、水平な相対性の中に存在しています。それぞれの事象はばらばらですが、同時に存在していて、人間は一つの「時」、すなわち永遠の「現在」の中を動いているに過ぎないのです

 ということは「過去」も「未来」もすべては、一つの「今」という「時」のところに存在しており、人は意識的に「いま」やりたいことを選んでいけば、「未来」を変えることができるのですね。

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 人生とは、自分が何者であるかを決め、それを体験するプロセスです。
 核大国が他国を侵略したプーチン経験は、世界の人々の意識を変革しました。
 暴漢に殺された安倍さん経験は、日本人の意識をどれほど変えるでしょう?