安倍元総理を銃撃した犯人は、母親が統一教会から破産させられた遺恨で安倍さんを狙ったと言っているそうですが、その真偽はさておき、とかく信仰熱心な信者は、なかば強制されたかのように喜んで自発的に献金することがありますね。
菊池寛が大正五年に書いた戯曲『屋上の狂人』では、怪しげな巫女(みこ)が精神障碍者の家族に “金毘羅神様のお告げ” を述べた宗教騒動が展開されています。
障碍者の子供がいる親や家族は、その不運をどう考えたらいいでしょうか?
以下はネタバレになりますが、青空文庫を読む際の助けになると思います。
《あらすじ》
明治三十年代、瀬戸内海にある小さな島で暮らす金持ちの勝島家では、長男の義太郎が狂人だった。
幼い頃から高い所に登りたがる癖があり、暇があると屋根の上に上がり、「金比羅さんの天狗さんの正念坊さんが雲の中で踊っとる、緋の衣を着て天人様と一緒に踊りよる」と無邪気なことを言っていた。
父親は、息子の狂気は医者では治せないので、ちょうど島に来ていた金比羅の巫女に祈祷してもらうことにした。
そうしたら巫女は「私は当国の金比羅大権現様のお使いの者じゃけに、私のいうことは皆神さんのおっしゃることじゃ」と言い、これは狐憑きだから、「木で吊して青松葉で(くす)燻べてやれ」と言う。
そこで嫌がる義太郎を煙でいぶしていたところに、義太郎の弟の末次郎が帰ってきて憤慨し、「松葉で燻べて何が治るもんですかい。狐を追い出すいうて、人がきいたら笑いますぜ。こんな詐欺師のような巫女が、金ばかり取ろうと思って……」と罵倒する。
そして父親を諭す(この言葉が本戯曲のハイライトになっている)。
「兄さんがこの病気で苦しんどるのなら、どななことをしても治してあげないかんけど、屋根へさえ上げといたら朝から晩まで喜びつづけに喜んどるんやもの。兄さんのように毎日喜んでいられる人が日本中に一人でもありますか。世界中にやってありゃせん。それに今兄さんを治してあげて正気の人になったとしたらどんなもんやろ。二十四にもなって何も知らんし、いろはのいの字も知らんし、ちっとも経験はなし、おまけに自分の片輪に気がつくし、日本中で恐らくいちばん不幸な人になりますぜ」
巫女は、兄が回復すれば財産はみな兄のものになるので、この弟は私利私欲で言っていると言い、「神のお告げをもったいなく取り扱うものには神罰立ち所じゃ」と反論するが、末次郎は「ばかなことぬかしやがって! 貴様のようなかたりに兄弟の情がわかるか」と言って、巫女を蹴っ飛ばして追い出す。
父親は「兄さん一生お前の厄介やぜ」と末次郎を咎めるが、「何が厄介なもんですか。僕は成功したら、鷹の城山のてっぺんへ高い高い塔を拵えて、そこへ兄さんを入れてあげるつもりや」と父親を諭す。
ラストシーンは、金色の夕陽の中、義太郎がいつの間にか屋根に上っていて、弟の末次郎に話し掛ける。
「末、見いや、向うの雲の中に金色の御殿が見えるやろ。ほらちょっと見い! 奇麗やなあ」
末次郎はやや不狂人の悲哀を感ずるごとく「ああ見える。ええなあ」と応える。
義太郎は歓喜の状態で、こう言う。 「ほら! 御殿の中から、俺の大好きな笛の音がきこえて来るぜ! ええ音色やなあ」
弟の末次郎の考えはちょっとおかしい、人間の尊厳や意識を回復することは非常に重要だという反論があるかもしれませんが、私が愛読している『神との対話』シリーズの本の中には、末次郎の考えと似たようなことが書かれています。
それは認知症になった人間はかわいそうだと思うが、本人は分かってないので意外に不幸ではない。また、何らかの障碍を持って生まれてきた人は運が悪いなあと同情するが、じつはその魂は非常にレベルが高いのだそうです。
この宇宙に創造者がいて、愛と智慧があるなら、人間の人生をたかだか七八十年程度で、たった一度限りにしないでしょう。本人がやりたい人生体験を多様にさせて、喜ばせようと考えるはずです。
イエスが「私はよみがえりであり、いのちです」と述べ、墓から復活した通り、肉体は死んで土に戻っても、魂は生き続け、何度でも生まれ変わるのです。
魂(人間の本質)は体験したがっています。自分が寛大であると知っていても、寛大である何かを示さないなら、それは概念にすぎません。自分が親切であると知っていても、誰かに親切にしなければ自意識があるだけでしょう。
ということは、障碍を持って生まれ(変わることを選択し)た魂は、普通より困難な人生体験をして、もっと忍耐や赦しや愛を培いたいと考えているのです。ですから、そんな人はじつは超意識レベルでは質的に高い魂だと考えられるのですね。
その家族にとっても、愛や受容や寛容を培う機会が与えられるのですから、その家族もじつは霊的にレベルが高いのです。そうでないなら「神は不公平な方ではない」と述べた使徒ペテロは嘘つきになります。(使徒10:34)
そう思えば、ひとを見る目も変わってくるでしょうし、完璧でないように見えるあらゆることにもじつは祝福がある、と思えてきませんか。
>