右の頬を打たれて、左頬を向けたら、また打たれた場合は? a | barsoは自由に

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あのイエスは言行不一致であった、と思う人がいるかもしれない。 

というのは、イエスは「人もし汝の右のほおを打たば、左をも向けよ」と言ったが、 

この言葉通りにしたことは無いからだ。(マタイ5:39文語訳) 

 

イエスは最後の晩、大祭司の前で、下役から頬を平手打ちされたことがあるが、 

イエスはこう言って下役を咎めた。

 

「もし私が何か悪いことを言ったのなら、その悪い理由を言いなさい。しかし、 

正しいことを言ったのなら、なぜ私を打つのか」。(ヨハネ18:23口語訳) 

 

イエスは、もう片方の頬を差し出したりせず、むしろ抗議をした。

 

なので「左頬をも向けよ」は、文字通りに解釈したらいけないようだが、 

そうなら、一体どういう意味なのか?

 

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「人もし汝の右の頬を打たば、左をも向けよ」の意味は? 

 

普通は右利きの人が多いので、ひとから頬を打たれると、こちらは「左頬」を打 

たれる。ところがイエスは「右頬で打たれたら」と特定した。だから相手は右手 

の甲(てのひらの反対側)で、打ち払うようにこちらの「右頬」を打っている。※ 

 

つまり拳固で頬やあごをガツンとなぐる行為ではなく、ひとを小馬鹿にし、侮辱す 

るために、右手の甲で頬をピシャッと平手打ちする “挑発” 行為なのだ。 

 

だから暴力に一切抵抗するなとか、お人好しになれという意味ではなく、挑発に 

乗ってやり返すな、こちらから攻撃を仕掛けるなという意味で言われている。 

 

なので「左頬をも向けよ」とは、強調のための誇張法(修辞話法)と考えていい。  

 

イエスは弱々しい人ではない。この絵は平手打ちではないが、必要な場合には実力行使もした。  gureko9.jpg

エル・グレコ「神殿から悪徳商人を追い払うキリスト」1600年頃 

 

そこで、問題が生じる。こちらは侮辱に耐えていたら、 

相手は調子に乗って、左頬も打ってくることが予想できるのだが・・・。

 

 

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右頬を打たれて我慢したら、さらに左頬をも打たれた場合は? 

 

世の中には、パワハラ、いじめ、中傷、排除、虐待、ストーカー行為が絶えない。 

 

なぜひとを打つのかといえば、優越感を感じ、劣等感が減るからで、だから打っ 

ても仕返しをされないと分かると安心して、余計面白がって、そうする人がいる。 

(だから強い人や国にはへつらうが、おとなしい人や国には強く当たる人がいる) 

 

そういうとき、黙って、耐えるのは、美徳であり、“大人の対応” なのだろうか。 

 

そんな場合、こんな対処法がある。 

 

A:イエスの勧めを “言葉通りに” 実践する、立派な善い方法。 

使徒パウロは、イエスの勧めを積極的に解釈して、「左頬をも」差し出した。 

 

「私は・・・はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられて 

は優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、 

人間のくずのようにされている」(コリント第一4:12,13 口語訳) 

 

嘲弄されても(言い返さずに)祝福し、ののしられても(ののしり返さずに)優しい 

言葉を掛け、パウロは単に我慢する以上の善いことを行なった。だから世間から 

は、軽んじられ、馬鹿にされ、「ちり(塵)」や「くず」のようにみなされた。 

 

しかし彼はそれを誇りに思っていた。神からの祝福があると信じていたからだ。 

(神に信仰を持つと、こういう利点がある。もしくは難点?がある) 

 

B:イエスの勧めを “半分ほど” 実践する、まあ、良いと思える方法。 

私は使徒パウロの近似法だった。生来臆病で、腕力がないが、忍耐だけは得意な 

せいと、「右の頬を」の勧めを多少実践していると思えば自尊心が保てるからだ。 

 

しかし聖書の原則は、世間には通じにくい。悪に悪を返さないようにしていると、 

性格の良い人は敬意を払ってくるが、性格の悪い人はかえって付け上がってくる。 

 

それで今は路線を変更し、あまりに態度が悪い人には、よくよく我慢したのちに、 

相手の問題点を道理をもって指摘することにした。逆恨みはされるが、悪辣行為 

はピタリと終わる。そして不思議なことに、大抵、相手はそのうち居なくなる。 

(私に必要な経験が終わったので、相手は人生のステージ上から消えるのだろう) 

 

さて、ご自分なら、どうされますか。どうされていますか。 

 

 

 

補注――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 

※W・F・アルブライトとC・S・マンによるマタイに関する注釈は「イエスはここで身体的な殴打すべ 

ての中で最も侮辱的なものは手の甲で右の頬を叩くことである点について述べている。それは近東 

においては依然として真実である」としている。「右の頬」とは言葉の綾で、単に「頬」というこ 

とかもしれないが、いずれにしても頬を打つのは侮辱して挑発する行為であることは間違いない。 

参考――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 

●大本教の二大教祖の一人・出口王仁三郎は、さすがに宗教人で、善いことを言っている。 

「縁があって人生の途上で自分と出会う人を、何とかして良くしてやりたいと思っている人は、怒 

るでもなく泣くでもなく、人につかみかかって殴るような人を、どうすればもっと立派な人に出来 

るか、色々と斟酌(しんしゃく)するじゃろう。わしの場合だと、この世的にどう顕われるかは、 

神の御心のままじゃ。心乱されてはいかん、と。この程度の心境じゃろうのう」(部分抜粋) https://blog.goo.ne.jp/goodwonderland/e/98507f41cee3fd9d8d55bb6de8a553ab ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――