2月25日以来にブログ記事を更新致します。

長期間更新しなかった間も、ブログをチェックして下さった皆様、ありがとうございます。

メールやコメント、メッセージなどを送って下さった方々、ご心配をおかけし申し訳ございませんでした。

私も有紀子も、そして娘も皆無事です。



2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生したその時、我々夫婦は鹿児島県大島郡徳之島にて合宿を行っていました。

当初この期間は、陸連・連合の合同合宿から続けてニュージーランド・クライストチャーチでの個人合宿を予定していましたが、クライストチャーチでの大地震の影響で合宿を中断し帰国の流れとなった為、3月初旬より徳之島でロンドンマラソンへ向けた強化合宿に入っていました。



東日本大震災が発生した時、我々は練習中でした。

遠くの方から町内放送が微かに聞こえてきました。

『宮城県沖で大きな地震が・・・』

『震度6~7の・・・』

『徳之島にも津波の心配が・・・』

途中途中聞きづらい放送で、最初は何が放送されているのか分かりませんでした。

ただ、あまりにも繰り返し放送されているので心配になり、両親に電話をしたところつながらず・・・

急いでホテルに戻りテレビをつけ、そこに映し出されている映像を見て足が竦みました。


続々と伝えられる被害の状況。

映画でしか見たこともないような津波の映像。

同じ日本で起こっているという事実を受け入れられない自分がいました。

それでも、この映像は編集され、凄惨な場面を省いた映像なのです。

現場の光景は、想像を絶するものなのだと思います。



大震災発生後、ホテルに戻ってからも何度も何度も自宅、両親、栃木県内の友人知人に電話やメールをしましたが、まったくつながらず、応答もありませんでした。


ただただ不安になりました。

どうして良いか分からず、自分の無力さに愕然としました。


クライストチャーチでの地震で恐怖を感じたばかりだった我々にとって、地震被害の映像を見ているだけで震えが起きました。

立っていると今ここも揺れているのではないかという錯覚が起きるのです。

電話は夜通しかけ続けていたのですが、一度もつながらず翌朝を迎えました。


そんな中一通のメールが届きました。

同じ町内に住む有紀子の姉からでした。

家族は皆無事であること、自宅と敷地内の建物に大きな被害があること、電気や水道が止まっており、携帯電話や固定電話も通じなくなっていることなどが伝えられました。


家族が無事であることが確認でき、正直ほっとしました。

地震のあった翌日に一度だけ電話がつながり、娘とも話をすることができました。

震度6強の地震、怖かったに違いありません。




地震発生後、初めて自宅に戻った際、変わり果てた風景に唖然となりました。

駅から自宅に戻る間に見た住宅のほとんどの屋根の瓦は落ちてしまっており、ブルーシートがかけられていました。

ガソリンスタンドに数百メートルも車が並んでいる光景も。

多くのスーパーは、営業も行っていないようでした。


自宅の敷地を囲んでいた外壁はすべて崩れていました。

3棟あった石蔵の1つは完全に倒壊し、すでに片付けられ何も残っていませんでした。

残り2つの蔵も、鉄製ワイヤーが二重三重に巻かれなんとか支えられており、修繕するか、潰してしまうか、決断しなければならない状況でした。

自宅も外壁に数箇所亀裂があり、外壁が剥がれている部分もありました。

自宅内に入り、あまりの荒れように呆然となりました。

家中の壁という壁に亀裂が入っていました。

このまま住んで良いのかどうか、家を建てて頂いた大工さんに見てもらわなければいけませんが、その大工さんの自宅はもっと大きな被害があり、完全に自宅に住めない状況とのことでした。

町内の被害も甚大でした。



クライストチャーチの地震の際、街の皆さんのこれからの生活や、街の復興を考えると本当に心配な気持ちになりました。

この状況をなんとか乗り切って欲しい

また綺麗で活気のある街が蘇って欲しい

街の皆が笑顔を取り戻して欲しい

そんな考えを持っていましたが、今はそういったことを簡単に考えていた自分を恥ずかしく思います。

その時は、心配する気持ちの他に

『自分は日本の家に帰ればまたいつも通りの暮らしが待っている』

という利己的な考えもあったのだと思います。


自分の住んでいる国が、街が、家が、大きな被害を受けた時。

住む所、寝る場所の心配までしなければいけない状況になった時。

今日の食べ物、飲み物の心配までしなければいけなくなった時。


今回の地震と津波の影響で、何十万、何百万、それ以上の多くの方々が直接的、または間接的に被害に遭いました。今もなおその被害は続いています。

皆、被災者です。

そして、被害の全容はまだ把握されず、支援の手は被災されたすべての方々に届いている状態とは言えません。

さらに原子力発電所の事故により、見えない恐怖との戦いも始まっています。

そしてこの戦いもまだ終焉が見えていません。むしろこれからが本当の戦いになります。

放射線物質と共に生きていかなければならないのです。

小さな子を持つ方々や妊婦さんは、今我々と同じ心配をされているかと思います。

この子達の将来は・・・




我々は命の危険こそありませんでしたが、物的被害、心に受けたダメージは大きなものです。

有紀子は、娘と再会するまでの間、今まで私の前でも一度も見せたことの無い程精神的に不安定な状態に陥りました。

練習どころの状態ではありませんでしたが、ライフラインや交通機関の復旧が進み、娘を合宿先に連れてくることができ、今は落ち着いております。



地震発生から約3週間という時間が経過しました。

多くの方がこの未曾有の災害により深い悲しみを受けています。

同時に、この事実を受け入れ、前に進もうとしています。


地震の後、ブログを更新して何かを発信しようと何度も思いましたが、何を発信すべきなのか、何を発信できるのか、答えがでませんでした。

時間の経過と共に

それぞれがこの大震災による被害の事実と今の日本の置かれている状況を受け入れ

それぞれの考え方で

それぞれの方法で

それぞれができる範囲で

現実とこれからの未来に向き合うことが大切なのではないか。

漠然とそういった考えを搾り出せただけでした。


皆さんの想いや願いの根本はきっと同じ筈です。



震災による悲しみの深さは人それぞれで、その悲しみのすべてを共有・共感することは難しいと思います。

しかし、少なくとも今は日本全国、世界各国から多数の機関が、大勢の方々が、この状況をどうにか助けようと、支えようと、大きな大きなパワーを被災した方々に送って下さっています。

その形は様々だと思います。

目に見える物もあれば、目に見えない物もあります。

1つでは小さなパワーかも知れませんが、集まれば信じられない程の大きなパワーに、大きな希望の光になると思います。


今は一つの負の言葉を紡ぐより、一つの温かく前向きな言葉を紡ぎ出す時だと思います。

我々も我々が対応できることを考え、そして行動しました。



まとまりのない文章で申し訳ございません。

地震後、初めて記事を更新するページを開き、今一気にここまで書きました。

まだ気持ちの整理もできていない部分もあります。

それでも私も有紀子も、次は自分達自身が前に進まなければいけないと決断致しました。


我々の言う前に進むという意味は

『マラソンを走る』

ということです。


昨年秋に公表した当初の予定通り、有紀子は4月17日にイギリス・ロンドンで開催される2011ロンドンマラソン に出場致します。

世界選手権やオリンピックで勝負できるアスリートへ成長する為にも、世界最高レベルの大会と言われるロンドンマラソンで今年も勝負をしてきます。



有紀子も言います。

『自分の走りで勇気や希望を』

勿論、そういった想いも強く持っています。

ただ、それだけはありません。

自分達も一生懸命生きていかなくてはいけない。

正直、そういった気持ちも強く持っています。

自分達を奮い立たせる意味も込めて、ロンドンマラソンに出場致します。


こういった時だからこそ

『笑顔と素直な心を』

有紀子の大切にしている言葉ですが、私も今はその精神で取り組んでみようと思います。



気が付けば今日から2011年度のスタートですね。

本年度もホクレン女子陸上部赤羽有紀子 をよろしくお願い致します。


長文に最後までお付き合い下さった皆様、ありがとうございました。

次はこのブログのタイトル・趣旨に沿って、明るい記事を書きたいと思っております。



ホクレン女子陸上競技部

専任コーチ 赤羽周平