レッドソックスファンの好事家ブログ




ビリー・マーチン


1950年から二塁手としてニューヨーク・ヤンキースなどでプレー、現役時代はここぞというところで打つなどの勝負強さがあり、ワールドシリーズでの打率5割(24打数12安打)で1953年ワールドシリーズMVP。現役時代からマーチンは野球の戦術面で、ケーシー・ステンゲル監督をはじめ、多くのコーチに教えを請うことが多く、チームメイトのミッキー・マントル にも「あれほど情熱的に野球を教わっていた人間は見たことがない」と言わしめるほど・・・。

1957年に、ニューヨークのナイトクラブ「コパカバーナ」で起こした乱闘騒ぎにより、ヤンキースを追われるような形でトレードに出され、その後、様々なチームを渡り歩いて1961年に現役を引退。

引退後はファームでのコーチを経て1969年にミネソタ・ツインズの監督に就任、その年に地区優勝を果たしたが、フロントと対立して退団。その間にチームの看板選手だったロッド・カルー を鍛え上げました。その後、デトロイト・タイガーステキサス・レンジャーズでの監督を経て、1975年からは古巣ヤンキースの監督を務めたが、当時からのオーナーであるジョージ・スタインブレナー や1977年に移籍でやってきたレジー・ジャクソン らとたびたび対立し、タブロイド紙はこの当時の球団を“Bronx Zoo(ブロンクス動物園)”などと揶揄。1982年にはオークランド・アスレチックスで指揮をとり、盗塁王リッキー・ヘンダーソン を育てました。

こんな作戦がありました。ヘンダーソンが出塁すると盗塁の構えをさせておいて、次の打者に三塁線へのセーフティバントをさせます。バントですからファーストとサードは前へ出てきて打球を処理、この場合は三塁線なので三塁手が処理。ファーストへは二塁手がセカンドへは遊撃手が入りますが、サードは・・・。このがら空きのサードをヘンダーソンに狙わせました。DASH!つまり1回のバントでランナーをファーストからサードへ進めるバントです。また、相手チームがバッター・ボックスの寸法を長くし、変化球を曲がる前に打とうとしてきたことがありましたが、マーチンは寸法を測りなおすように要求。彼自身、同じようなことを考えていたといいます。


当時、マーチンは監督室に次のようなスローガン掲示。

1.ボスは常に正しい

2.ボスが間違っていると思ったら1.を見よ!


本塁打の破壊力と機動力を生かした攻撃的な野球スタイルは「ビリー・ボール(Billy Ball)」と呼ばれ、現役時代から見られた武闘派とも言える彼の短気と猪突猛進な性格は多くのトラブルを巻き起こします。前述の「コパカバーナ」での乱闘のほかにも、ツインズ監督時代には主力投手のデイブ・ボズウェルをぶっ飛ばしたり、叫び1979年10月にはセールスマンを殴ったり叫び、地元ニューヨークの記者の前歯をへし折るなど・・・。叫びスタインブレナーとの愛憎入り混じった関係も有名で1988年までにヤンキース監督に5回就任し、5回解雇。結婚・離婚を繰り返したことで有名だったリチャード・バートンエリザベス・テイラーに例えられました。



1983年7月24日、ヤンキー・スタジアムでのニューヨーク・ヤンキースカンザスシティ・ロイヤルズの試合。4対3とヤンキース1点リードで迎えた9回表2アウト、ランナーを1人置いてジョージ・ブレット がホームランを放ち、4対5と逆転。マーチンが抗議。ブレットのバットに塗られた松脂が18インチという規定の範囲を超えていると主張。球審のティム・マクレランドはそれを認め、違反バットを使ったブレットはアウト、すでに2アウトだったので試合終了という判定。実は、マーチンブレットのバットが違反であることを以前から知っていて、そのことを持ち出す好機をずっとうかがっており、これ以上ない場面で指摘。ロイヤルズはこの裁定について提訴。試合の4日後、アメリカンリーグのリー・マクフェイル会長は、ブレットはルールの精神を犯したわけではないとしてロイヤルズの提訴を支持。つまりホームランは有効なので、5対4の9回表2アウトから試合を再開しなければならないこととなります。

後に再開された試合、マーチンは各塁にボールを転送させ「お前たちはブレットがきちんと塁を踏んだか見ていないだろう?あの場面にいなかったのだから」と審判に詰め寄りますが、審判もお手の物。それを見越していたのか、「ブレットがきちんと塁を踏んだ」という審判の署名入りの証明をマーチンに見せ付けます。

打者が出塁する前から盗塁のサインを送ることもありました。こうすれば、打者が出塁して、相手がサインを盗もうとしても、サイン自体がないことになります。

一塁へのけん制が緩慢な左投手に対して、三塁ランナーが大きなリードをとり、一塁ランナーも、ついけん制したくなるような大きなリードをとります。投手が顔を向けている一塁ランナーを刺そうと送球した瞬間、三塁ランナーがホームイン。仮にホームに投げても三塁ランナーはホームに戻れますし、一塁ランナーは二塁へ行けます。


1986年に、ヤンキースは現役・監督を通じてつけていたマーチンの背番号『1』を永久欠番に指定。1989年12月25日、ニューヨーク州ビンガムトンで乗っていたトラックがアイスバーンで横転する事故により死去。ドンッ61歳没。この訃報を聞いたスタインブレナーは「そう滅多にいない男だった。家族の一人を亡くしたような気持ちだ」とコメント。しょぼんスタインブレナーが死去した際には「天国でビリー・マーチンと言い争いを始めているのでは?」とか「ビリー・マーチンを解雇しているのでは」というジョークが流れたほど・・・。


野球に対する情熱を有り余るほどに見せ付けたマーチン。監督としてまだまだ奇襲攻撃を見たかった気がします。次から次へと「どうしてそんなことを思い付くんだ?」と驚かされるばかり。もっとマーチンの戦法を知りたいです。