トッド・ヘルトン
1992年 ベースボール・アメリカ誌による高校全米選抜に選出。卒業後、ドラフト2巡目でサンディエゴ・パドレスから指名を受けるが、アメリカンフットボールと野球の両方で推薦を受け、テネシー大学に進学。フットボールでは、大学在学中に後にNFLでトップQBとなるペイトン・マニングが加入、結果として野球に専念。
1995年にコロラド・ロッキーズに1巡目指名されて入団。A級からスタート。1996年はAA級で開幕。7月にAAA級へ昇格。シーズン後はアリゾナ・フォールリーグに参加。
1997年はAAA級でシーズンを迎えたが、8月までに打率が3割5分2厘に達するなど突出した成績を収めていたためにメジャー昇格。翌日の8月2日のパイレーツ戦でメジャーデビュー。4打数2安打、1本塁打。この翌日の試合でも本塁打。1年目は35試合に出場し、打率2割8分、5本塁打、11打点。
当時ロッキーズのスター選手だったアンドレス・ガララーガがブレーブスに移籍、1998年からスタメンに定着。打撃3部門でメジャー新人選手1位となる打率3割1分5厘、25本塁打、97打点を記録。チームメートはヘルトンを「ロッキーズを代表する選手」に選出。
1999年3月2日に4年契約を結び開幕 。打率3割2分、35本塁打、113打点。6月19日のマーリンズ戦ではサイクル安打を達成。
2000年は3割7分2厘で首位打者、42本塁打、147打点で打点王の2冠に輝いたほか、59二塁打。ハンク・アーロン賞も受賞し、MLBオールスターゲームやシルバースラッガー賞にも選出。
2001年4月に2003年から9年総額1億4150万ドルで契約延長。打率3割3分6厘、49本塁打、146打点。長打数は105で2年連続で100長打を達成。更に守備力も評価を高めるようになり、自身初のゴールドグラブ賞。
2002年は背中を痛めたためか、前年から比べると成績が大きく低下。それでも打率3割2分9厘、30本塁打、109打点。シルバースラッガー賞、さらに2年連続となるゴールドグラブ賞も受賞。
2003年は首位打者争いでアルバート・プホルス が打率3割5分8厘7毛でタイトルを獲得し、ヘルトンの打率は3割5分8厘4毛でリーグ2位。33本塁打、117打点も記録。オールスターには4年連続で出場。シルバースラッガー賞にも2000年から4年連続で選出。
2004年、バリー・ボンズ が首位打者のタイトルを獲得、2年連続で打率がリーグ2位。打率3割4分7厘、32本塁打、96打点。ヘルトンが勝負を避けられ、その恩恵でヘルトンの後を打つビニー・カスティーヤは打点王。6年連続30本塁打以上はチーム記録。守備では高く評価され、2002年以来となるゴールドグラブ賞。
2005年年明けに今まで背中の痛みを抱えながらプレイしていたことを公表 。7月26日から8月9日にかけて自身初の故障者リスト入り。開幕から打率が低迷したが、7月下旬に打率3割2分、20本塁打、79打点、45二塁打。
2006年、開幕直後は好調も4月に腸の感染症にかかり入院。欠場自体は15試合だけだったがその後も腹痛は続き、シーズン終了時の打率と本塁打はレギュラー定着以来自己最悪の数字となる打率3割2厘、15本塁打、81打点。
2007年は打率3割2分、17本塁打、91打点、40二塁打。二塁打では史上初めて10年連続で35二塁打以上を達成。チームはワイルドカードでポストシーズンへ進出し、リーグ優勝。ヘルトンにとってはプレーオフ初出場。球団史上初のリーグ優勝。
2008年は、背中の痛みでわずか83試合のみの出場。打率2割6分4厘、7本塁打、29打点。オフにも椎間板の内視鏡手術。
2009年は復活のシーズン。打率3割2分5厘、15本塁打、86打点、38二塁打。5月19日の対アトランタ・ブレーブス戦にてメジャー通算255人目の2000本安打を達成。ヘルトンは前日にヒット性の当たりをエラーと公式記録員に判定されていたが、今回は正真正銘の安打でメモリアルヒットを達成。
2010年、開幕から不調。腰痛もあり、打率2割5分6厘、8本塁打、37打点。
2011年、打率3割2分、14本塁打、69打点、27二塁打とやや復調気味。
2012年、またも腰痛に悩まされ、打率2割3分8厘、7本塁打、37打点、16二塁打。