レッドソックスファンの好事家ブログ






サミー・ソーサ


60本塁打以上をMLB史上最多の3度記録しているドミニカ共和国の国民的英雄


1985年ドラフト外でテキサス・レンジャースと契約。1989年6月16日 のヤンキース戦でメジャーデビュー。シーズン途中の7月29日シカゴ・ホワイトソックスへトレードで移籍。2年目の1990年は153試合に出場してリーグ7位の32盗塁を記録し、二塁打・三塁打 ・本塁打 ・盗塁の4つの部門でリーグで唯一となる2桁以上の成績。しかし打率は2割台前半と低く、リーグで4番目に多い150三振を記録。

1991年開幕戦で2本塁打5打点の活躍も、不振のためシーズン途中マイナーに降格。 1992年3月30日にトレードでシカゴ・カブスへ。

1992年は故障者リスト入りしたため67試合の試合出場。1993年は33本塁打・36盗塁で球団史上初めて30-30を達成、9月29日には1試合4盗塁で球団記録タイ記録。


1994年は打率3割・25本塁打・70打点でチーム3冠を達成。1995年は36本塁打・34盗塁で再び30-30を達成。オールスターに初選出、シルバースラッガー賞を初受賞。

1996年は、40本塁打数をマークし、5月16日のアストロズ戦では、1イニング2本塁打と球団史上初の快挙を達成。7月にはプレイヤー・オブ・ザ・マンスを初めて受賞。

1997年は全162試合に出場して球団記録を更新する174三振 。1998年から4年総額4,250万ドルで契約延長お金


それまで「本塁打か三振か」だったソーサジェフ・ペントランド打撃コーチが「グリップの位置を低くして、コンパクトにスイングしろ。右方向へ打つ意識を持て」とアドバイス。1998年 、マーク・マグワイア とともにロジャー・マリス が1961年記録した年間最多本塁打記録61を破り、最終的にソーサが66本、マグワイアが70本を記録。5月24日時点でソーサの本塁打数は9でマグワイアに対し15本差をつけられますが、翌日からの30日間に21本塁打を放ち、6月には月間新記録となる20本塁打を記録 。9月13日にマグワイアに5日遅れでマリスの記録を上回り、9月23日にシーズン11回目となる複数本塁打を放ち、ハンク・グリーンバーグ のメジャー記録に60年ぶりに並びます。

本塁打王にはなれませんでしたが、158打点で打点王。塁打数はリーグ最多の416を記録。これは1948年 にスタン・ミュージアル が429塁打を記録して以降最多。チームをワイルドカードでプレーオフ進出に貢献し、MVPを受賞。王冠1


1998年 、1999年 、2001年の3シーズンに60本塁打以上をマークしたものの。いずれのシーズンも本塁打王のタイトルを獲得していません。

1998年、マグワイア:70本、ソーサ:66本。

1999年、マグワイア:65本、ソーサ:63本。

2001年、ボンズ:73本、ソーサ:64本。

50本塁打の2000年と49本塁打の2002年、2度本塁打王になっています。

1999年に制定されたハンク・アーロン賞の初代受賞者 。2001年 史上初めて3回目の60本塁打を達成し、2回目のMVPを受賞。王冠1

球団とは2002年から4年総額7,200万ドルで契約延長。お金 

2003年4月4日 、500本塁打を達成クラッカー


2005年2月2日ボルチモア・オリオールズへトレードで移籍。オリオールズにはラファエル・パルメイロ が在籍していたため史上初めて500本塁打コンビとなります。しかし期待された結果を残せず・・・。2005年末にFA 申請したものの、2006年シーズンが始まっても所属チームが決まらず、通算600本塁打を目前にしながら、事実上の引退状態、2006年7月、シカゴ地元紙に2007年シーズンからの復帰の意向を表明。


2007年1月17日に、古巣レンジャーズとのマイナー契約に基本合意。キャンプでのメジャー復帰を目指し、オープン戦ではブランクを感じさせない好調ぶりでメジャー契約に切り替えとなり、開幕メジャーの25人枠入り。

2007年 4月26日にジェイコブス・フィールドで行われたクリーブランド・インディアンズ戦で通算44球場目となる本塁打を放ち、フレッド・マグリフケン・グリフィー・ジュニア の持つメジャーリーグ記録を更新。


4月は7本塁打の量産ぶりも、5月以降は一転沈黙。6月20日の古巣カブス戦でメジャー史上5人目の通算600号本塁打となる今季第12号を放ち、地元テキサスのファンは大歓声で祝福。クラッカーその記念ボールは大塚晶則投手がブルペンでキャッチ、その後ボールはソーサの手に渡りました。

シーズン後半戦は欠場がちで、114試合の出場ながら、21本塁打、92打点とまずまずの成績で、、翌年以降の現役続行を表明。しかし、ミッチェル報告書に端を発する大騒動の中で、ソーサの薬物疑惑も再燃。同報告書には名前が無かったものの、司法省の開示資料の中にソーサの名前があることが報じられました。


2003年 6月3日 、当時の本拠地シカゴで行われたデビルレイズ戦で、折れたバットの中に使用の禁止されているコルクが入っているのが発見され、ソーサは退場処分を受け、後に更に7試合の出場停止処分。本人は試合前の打撃練習のエキシビジョンで使用するためのものを誤って使用した、と弁明。


故郷のドミニカ共和国に総額120万ドルを投じて、オフィスビル「30-30プラザ」を設立。また、国を問わず、難病に苦しむ子供たちの病院を訪れたり、障害者のための基金を運営するなど、様々な慈善活動に熱心に取り組んでいます。彼の背番号「21」はプエルトリコの至宝ロベルト・クレメンテ にあやかってのもの。クレメンテの遺族にも「私はクレメンテの生まれ変わりだ」と挨拶。


通算609本塁打は紛れもない強打者の記録ですが、234盗塁したようにオールラウンドプレーヤーでした。そして、キャリアの前半は守備力も平均レベル。しかしながら本塁打記録もステロイドとコルクバットの使用が疑われていることでかなりイメージダウンしています。



それでも、マグワイアのところでも書いたように、やはりソーサも殿堂入りにふさわしい成績を残しているのだから、殿堂入りすべきですね。これだけの大記録を残した選手たちを「ステロイド使用の疑い」とか「それによって成績を向上させた可能性」で殿堂からシャットアウトすべきではないと思います。


<最終更新日 2012年11月11日>